(2012年7月当時)
▼飯田ステーションホテル まつむらという名前のこのビジネスホテル、ひと時代前のテイストが存分に感じられましたが、今も現役で稼働しているようです。
ステーションホテルの名の通り、駅から100mとない至近にあります。
▼その飯田ステーションホテルのある駅前通りの様子です。
古そうな建物が多いながら、そこそこの層の建物が並んだ通りになっていました。
▼栄小路 と書かれたゲートのある通りです。
昔ながらの飲食店が立ち並ぶ通りでした。
▼飯田市のマンホールです。モノクロ版とカラー版の両方が見つかりました。
飯田市の「市の木」がリンゴであり、戦後間もない1947(昭和22)年に発生した飯田大火をキッカケに、1953(昭和28)年に街の復興策としてリンゴの植樹を行ったのが始まりとされていますが、すっかりリンゴが市のウリになっており「リンゴ並木通り」なるものも存在します。
▼太宰春台邸址 なる説明板が町の中のちょっとしたスペースにありました。
太宰春台(1680-1747)は江戸時代の儒学者ですが、ここ飯田城下の生まれで飯田藩士となりましたが、改易により一転、浪人となりました。
その後は江戸と関西を転々としつつ、荻生徂徠に師事し、名著を生み出した郷土の偉人であり、その邸宅跡としてここに建てられていました。
よりわかりやすく言うならば、日本に「経済」という言葉を広めた人物です。経済とは「経世済民」の略であり「世を経(おさ)め、民を済(すく)う」というものが語源となっています。
▼街へ出て「中央通り3丁目」というバス停です。
中央通りという名に、明確なここが中央だというものが感じられました。
多くの路線共通の途中バス停として停車するようですが、1つの行先あたりの本数はあまり多くないようでした。
▼その中央通りの交差点周辺です。
お店の看板の片側が外れていたり、信号向こうのゲートも単に枠だけですが、往年はきっと何かはまっていたのでは??と思うと、往時を偲ぶ風景という感じがしてなりませんでした。
▼街の中で、とっても渋い建物に出くわしました。
縦長の楕円形の窓とレンガ色の建物が存在感たっぷりでした。
▼りんご並木と人形劇のまち 飯田
として紹介されています。
りんごについては先述の通りですが、人形劇の街でもあるというここ飯田。
飯田人形劇カーニバルとして8月の第一木曜日から日曜日までの4日間行われるという、日本最大の人形劇イベントという事で、1979(昭和54)年からの歴史を刻み続けています。文化ホールだけでなく、学校や保育園、神社や路上など、街じゅうの至る所が劇場になるとあり、これは凄い所だと感じました。
▼街なかで見かけた時計塔ですが、これが「からくり時計」でした。
パカッと開いて出てきた人形たちがかわいらしかったです。
大抵こういうのは、それとは知らずに出くわすわけで、偶々定刻になって出くわすラッキー感が何とも言えないものがあります。
▼ぽぉ です!
という頭にリンゴのついたキャラの幟がありました。
2008年から「いいだ人形劇フェスタ」の公式マスコットキャラを務めているという事で、「ぽぉ」って何??と思いましたが、Appleの発音の「あっぽぉ」から来ているという、なかなか意表をついたネーミングのものでした。
▼橋から谷のようになった部分を見下ろしたものですが、なんともいえない崖屋造りっぽい感のある画に惹かれました。
▼ここは 銀座一 です。
と見える看板でしたが銀座一(丁目)でした。
飯田には「銀座商店街」というのがあり、HPも↓ありました。
明治期から街として形成され始め、1930(昭和5)年に飯田銀座と名付けられたといいます。戦後1947(昭和22)年に飯田大火で全戸焼失したという苦い経験を経て、1952(昭和27)年にアーケードがつき始めたといいます。
1967(昭和42)年に「飯田銀座音頭」なる曲が作られ、都はるみさんが歌われたといいます。また1978(昭和53)年には映画「帰らざる日々」のロケが飯田銀座にて行われたともありました。
▼千劇 とありますが、
センゲキシネマズ という映画館です。
この都市にして複数のスクリーンを持つ映画館が存在する事に驚きました。
映画館どんどん衰退していく感が個人的にはありますが、ここは今も稼働しているといいます。
▼リンゴ園を通りかかりました。
上の方がほんのり赤く染まりかけたリンゴの実が見られました。「みすずつがる」とか「ふじ」とかのリンゴがありました。さすが長野県だけあるなと感じたものでした。
街を流し歩いての記事でしたが、この後はある所に寄りますが、それは次記事に載せます。