(2018年11月当時)
▼冒頭リンクの駅記事では2008(平成20)年訪問時の様子で、その時は鴻巣高校90周年が祝われていましたが、ものすごくタイミングの良い事に、次に再訪したのがちょうど10年後2018(平成30)年であり、足し算して分かるように?鴻巣高校100周年な訳ですが、鴻巣駅で大々的に祝われていました。
鴻巣駅長も「おめでとうございます」なんて言ってたりします。
ここは何を隠そう?生まれて初めて行ったドトールがこの鴻巣駅前のお店でした。
それ以来というもの、どちらかというとドトール派で、アイスカフェモカの味が絶妙すぎて好きで、またコーヒーもいい感じ、何より個人的に落ち着くカフェ№1がドトールなのです。
▼鴻巣最大級
のフレコミで建てられていたマンション195室ということのようですが、完売御礼が貼られていました。
▼ひなの里通り
という名称のついた通りです。道路がブロック舗装されていました。
徳川家ゆかりの「御成町」の幟が通りに並び立っていました。
鴻巣には「日本一小さな東照宮」があるといい、それをこの鴻巣駅付近で見れるというのでやってきた訳です。
▼御成町 町内会区域
ってなんとも厳かな雰囲気の名前ですね。
▼そしてそして、
いよいよ日本一小さい東照宮
の入口です。
見るからにちっぽけな、日本一小さそうな?!入り口でした。
そんな周りを、御成町だの東照宮だのといった幟が色々と派手に飾ってありました。
▼日本一小さい東照宮
の入口を正面から。
狭い入口は奥へ進んでも狭いまんまでした。
御成町集会所の建物と塀の間のわずかなスペースにひっそりと。
ホントにこれが東照宮?って感じですよね、日光の本体を知っている人からすると。
▼これが日本一小さい東照宮の本体、「鴻巣御殿跡」とありました。
元々は徳川家康によって鷹狩りや領内視察のために宿泊所として造られた所とありましたが、当時は1.4haにおよんだありました。
その後家光の代まで同じように利用されましたが、1630年以降使われなくなっり、大火や解体などを経て明治期には僅かな旧御殿地は民有地となったという事で、その後永くどこにそれがあったのかすら分かっておらず、1994(平成6)年の発掘調査により一部が見つかったそうです。
▼これが鳥居の向こうにあった「東照宮」の石碑です。
▼勝願寺(しょうがんじ)というお寺の山門です。
浄土宗の寺院で、関東十八壇林のひとつとされています。
関東十八壇林とは、江戸初期に定められた関東の浄土宗の壇林です。それだけ歴史あるお寺という事でしょうか、創建は諸説ありつつ鎌倉幕府第4代執権北条経時の頃とありました。
この中の景色が素晴らしかったので、中へ入ってみました。
▼山門をくぐってすぐの地点ですが、この並木道がなんとも素晴らしかったです。
▼境内にあった木々のうち、面白い名前のものがありました。
ヒトツバタゴというモクセイ科の木で、なんじゃもんじゃと書いてあるのは別名がナンジャモンジャノキであるという事です。
▼勝願寺の鐘楼です。
鐘楼は頭でっかちの方が風格が感じられて良いですね。
▼勝願寺の本堂です。
1882(明治15)年の火災後に再建されたものといいます。
▼仁王門の両サイドに強面の仁王像がありました。
でも少々漫画チックな感じでした。
▼仁王門の全体像です。
この門は本堂同様に1882(明治15)年に焼失し再建されたものですが、再建前は結城城の矢倉を移設したものだったそうです。
▼これも勝願寺の境内ですが、この扉の歪んだものは「丹後国田辺城主 牧野家累代の墓」とありました。
牧野康成という人物が石戸領を領し、その子信成が石戸藩主になり、その後関宿に転じ、1668年から200年は田辺藩主を代々務め、その累代が眠る場所とありました。石戸藩というのは今の鴻巣市域も入っているようです。
▼勝願寺を出て、鴻巣公園という所へ来ました。
広いスペースだけの公園でしたが、周囲のコンクリートがヤバい事になっていました。
▼通りを歩いていて、こんな幟が見つかりました。
鴻巣って中山道の宿場町だったのか!とここで初めて知りました。
鴻巣宿は、中山道六十九宿の江戸日本橋から数えて七番目の宿場町でした。
1602年までは現在の北本市域にあったそうですが、幕府の宿駅整備により移転されたそうです。
▼路地を外れると、こういう光景にも出くわします。
▼わしやうどん
という、うどん店がありましたが、
わしや わしやうどん
と字面が並んでいて、オレオレ詐欺のようでした。
鷲屋製麺所というところのお店で、HPも出ていました。