大阪府守口市、大阪/守口① 在りし日の守口市役所からに続く守口市の旅です。
(2021年11月当時)
▼前回記事から約9年後の昨年11月の様子ですが、前回は京阪/守口市駅前周辺で、今回は地下鉄の守口駅前(両者近くですが)を中心にお届けします。
こちらは、守口駅の隣、大日駅前の大阪守口プラザホテル大日駅前で、この時宿泊利用したものです。
朝食付きで7000円くらいだったでしょうか、大日駅に近く、アクセス至便で良かったです。
前の道が狭くて全体像を撮るのが難しかったです。
▼ホテルの部屋から見た、朝の様子です。
日の出というには少し遅かったというところでしたが。
▼上の写真のアップの形です。
この時月曜の朝でしたが、早くから車が沢山通っていました。自分が休みだったのですが、世の中動いてるな、という事で。
▼ホテルにお客様アンケートがありました。
「京都プラザホテルズ」というところの系列のようです。
▼ホテルの朝食を頂いてチェックアウトした後、地下鉄に乗って大日駅から守口駅へ移動しました。
そこから少し歩いて、守口宿関連の場所をめぐりました。という程ではなく、実にピンポイントでしたが…。
ここで目についたのは、東海道「五十七次」のフレーズでした。
東海道は五十三次でしょ?となった訳ですが、江戸-京の間の五十三次(江戸日本橋と京は両端の為カウントなし)が歌川広重による浮世絵ですっかり定着してしまい、京から大阪への「京街道」も含めた五十七次が江戸幕府の公式認定、的な事でした。
ここへ来るまで、守口が宿場町と知らなかったのですが、この守口宿は五十七次最後の「五十七番目」の宿場町だという事です。
文禄堤というのは、江戸時代直前の文禄年間に豊臣秀吉が造らせた淀川左岸の堤防で、淀川の氾濫防止に、この改修は大変役立ったといいます。
▼大塩平八郎ゆかりの書院、とありました。
白井家というところの瓦が置いてありましたが、大塩平八郎の私塾の有力な門人として、有名な大塩平八郎の乱を起こすにあたっても経済的支援を行ったとありました。その家という事ですね。
▼守口宿本陣跡の看板の所へ
東海道57番目の宿場町としてアピールされ、江戸初期1616年には宿駅として整備されたという事で、五十三次が浸透しているのはやはり浮世絵が有名になりすぎてしまったのでしょうか。
27も旅籠があったという事で、結構賑わっていたのでしょうか。それを感じるエリアはかなり限定的な感がありましたが、この後登場します。
▼守口宿を色濃く感じさせるエリア、守口宿本陣跡のすぐ近くにありますが、建物として分かり易いというか、いかにも宿場町に来た感がここにありました。
またここの前には色々と道標などが建っていました。
▼難宗寺
というお寺です。
上の写真の櫓もこのお寺の中のものです。
1477年守口坊として建てられた500年以上の歴史があるというお寺です。
▼本陣跡の看板の通りから離れて、趣のある通りへ。
ここもまた守口宿の往時を垣間見られるような雰囲気があり、実際幟も出ていました。
宿場町の雰囲気を感じるにはこの辺りと、先の難宗寺あたりがベストかなと個人的には思いました。
▼最後は、上の写真の通りの延長線上にあるこれです。
守口宿高札場。ご法度などのお知らせ事項の掲示板ですね。
2016(平成28)年に建てられたそうですが、守口宿の栄えた頃を市民や来訪者に知ってもらうキッカケとしてだそうで、観光にひと役かってはいると思います。
さて、守口市につき2回にわたりお送りしてきました。
初回は商店街などを中心に、今回は宿場町を中心に、東海道が五十七次なのを今更ながらですが知る事ができ、良い機会になりました。