続々トラベルとかナントカ

日本全792市を訪問した駅や旅の記録です

生活と世の中と思い出と(1981年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。

 

久々にこのジャンルの記事を書きます。

 

今回は1981年の自分の周辺の出来事を中心として、単なる想い出綴りになるかもしれませんが、お送りします。小4から小5になる年でした。

 

↓前回1981年①の記事はコチラ

lefthand926.hateblo.jp

 

この年の初めごろ、小4の時(1~3月)は正直あまり記憶がないですがピンポイントに覚えている事を挙げていきます。

 

ただ、前年1980年の大晦日は徹夜しようと思ってNHK紅白歌合戦を自分の部屋でラジオで聴いていました。ラジオは持っていた訳ではなく、都度親に貸してもらってたものです。

今みたいにネットもパソコンもないし、テレビも部屋にないし、何より小学生でしたから、部屋にそういうものはなんにもありませんでした。

 

3月に学校の鍛錬遠足(長く歩くやつ)で、前日におやつを買いに行くという事で、自分がメンバーを決めて、その4人で自転車で駄菓子屋へ行った時の事は、とても楽しくて覚えています。それがどこの店なのか、全然記憶にないし、今は跡形もなく消えてなくなっているのかもしれません。

今はコンビニやスーパーなので「おばちゃん、まけてよ」みたいな事もない訳ですよね。

 

神戸でポートピア'81が開幕し、ポートライナーが通ったのもこの3月でしたが、神戸って県内でしたが、田舎者には縁遠い都会で、行く事もなかったので、フーンて感じで何のことか全然分かっていませんでした。とにかくゴダイゴの歌うCMソングが頻繁に流れていたのだけはよく覚えています。

 

また、3月に小学校で「自主登校」というのが始まりました。

それまでうちは町内の「班」ごとの登校でしたが、10何人くらいの単位で集合場所で集まって、揃ったら行くという形で、そこでは面白くない事も正直ありました。その班でひどい目に遭って、別の班に移籍した事もあったほどで。

その班登校が解除となり「各自で登校しましょう」という事になった訳です。

なんなら一人でも良かった訳です。

自分は近所の同級の友達と2人で通うようになり、その2年間は毎日登校で嫌な思いをした事はありませんでした。よくぞやってくれた、という感じでした。

 

春先だかに、広島へ出張に行っていたという父親から「カープ手帳」という中国新聞社発行の小冊子をもらいました。自分が保有している最古のプロ野球選手名鑑で、カープの選手紹介や名シーンがメインでしたが、このように他球団の選手も名鑑として載っていて、これでいろんな球団に色んな選手がいるんだと幅広く知りました。

 

4月になると小学5年生になりました。

4年生の時にクラスが増えたためのクラス替えをしており、結局1年でそのクラスが終わり、3年連続で新しいクラスになりました。

1学年45人で7クラスぐらいな感じで、団塊ジュニアと呼ばれる我々世代は人口が多く、クラスも多かった訳で、今では少子化でその半分くらいのようです。

 

5月連休に、親戚で集まって国民宿舎のような所へ日帰り旅行しました。

前年末に祖母が亡くなり、その喪明けではありませんが、母の兄弟が多数いたので、かなりの所帯になりましたが、そこで人生初のカラオケというものをやりました。

80年代初頭は、今みたいにカラオケBOXなどないし、あるとすればスナックのカラオケコーナーとか、このような宿舎備付けのものくらいでした。それもレパートリーが極少なくて、数百曲もあればいいところで、ほとんどが演歌という感じでした。

なのでこの時歌った曲が渡哲也さんの「日暮れ坂」で、小学5年が演歌を歌ってました(笑) 大好きだった「大都会PARTⅢ」のエンディングテーマだったので歌は覚えていました。

 

夏休みに林間学校がありました。

小学校生活で、この時が最初で最後の林間学校で、クラスの皆と泊まりで行く旅行自体が初めてでした。

恒例の枕投げもやりましたし、お寺だったのですが、講話を聴いたり肝試しをしたり…。

また、この夏休みには友達と一緒に福井(兵庫から)へ行く話も出てきましたが、都合で参加できず、とても残念でした。

都道府県というものをちょうと習い始めた頃だったので、県外へ行くというのがすごく憧れで、大人になってから旅行しまくったのは、小さい時にあまり旅行ができなかった事の反動かもしれません。

うちは車がなく親も出不精でお出かけの機会が少なく、親戚宅へ行くか、父の会社の旅行で夏休みにバス旅行するかぐらいでした。

 

そして、その夏休みの会社の旅行というのが、香川県小豆島で、この時生まれて初めて「島」へ行きました。

ここで泊まった民宿に置いてあったテレビゲーム機でインベーダーをやったのを覚えています。子供がなかなかできるものではなかったので「憧れの」という感じでやっていました。この時「ザ・ベストテン」を見た事も覚えていますが、普段家で見るのと、こういう旅行先で見るのとはまた全然違うんですよね。

この時、少々熱っぽくなってきていたのにどうしても海水浴したくて、親の制止を振り切って海で泳いだら…その時はどうもなかったのですが、帰った翌日に39℃の高熱が発生し、身体が燃えるように熱かったのをよく覚えています。おそらくこの時以降、人生で「熱を出した」という自覚は40年以上、一度もありません。

9月くらいから、中学受験も視野に入れてという事で、親に促され模擬テストを受けに行きました。4、5月くらいから言われていましたが、なかなかその気にならずこの時にようやく重い腰を上げたという訳です。初めて市営バスに乗って市の中心部まで行ったのがこの時でした。こんな都会なんだ!とビックリしたし、普段自分たちが住んでる所が田舎なんだとも悟りました(笑)

 

10月に地元の祭りに行きました。

というのも、うちの地元は祭りが2日間あり、最初の日は学校が途中で終わって(2時間目まで?)、皆帰宅後に公民館等に集まって子供たちが屋台を引いて町内を歩く宵宮的なもので、基本強制参加でした。

2日目は神社に屋台が集結する本宮的なもので、こちらは子供たちは任意参加でした。

祭りが正直嫌いだったので、ほとんどの年で参加せず家でじっとしていましたが、なぜかこの年だけは参加して縁日の様子を楽しんでました。

 

11月、9月から受けるようになった模擬テストに初めて友達と2人で行きましたが、自宅最寄りのバス停で待っていたおばさまが車にはねられて倒れていました。自分たちがバス停に着いた時には、はねられた後で救急車へ運ばれるところでした。

初めて事故ではねられた人を見てショックで「大丈夫かな」と思っていましたが、後日新聞でその方が亡くなった事を知りました。

はねた車の運転者が高血圧で高い時は200を越える事があったとも書いてありました。自分たちがもう少し早くにバス停に着いていたら、今頃生きていなかったかもしれません。亡くなられたのは大変お気の毒でした。

 

また、鳥がすごく飼いたくなって、親戚宅の近所からセキセイインコが譲り受けられそうとなって、鳥かごをもって家から勝手にひとりでで行った事がありました。どうやって行くかも分かってないのに、自分の中では冒険みたいなものでしたが、親から怒られた後、無事に譲り受けられました。

しかし、程なく1羽は死んでしまい、土に埋めました。残る二羽は翌年、親が物干しに吊るしていた時に「蛇に食べられそうになったから逃がした」と言っていましたが、多分勉強に集中せず鳥を見てばかりいたので、引取り元へ返したのでは?と思います。家の近くに紛れ込んで来たカメも飼っていましたが、何か理由をつけて逃げたといわれ、生き物を飼うのを快く思わずに逃がしたのかな、と推測しました。

まぁとにかくもっと自分で面倒を見たかったのはありました。

 

この年、生まれて初めてアイスクリームケーキというのを食べ、クリスマスはこれでした。それまでは生ケーキだったので新鮮でした。

そしてクリスマスプレゼントは「キンキンのHi&Loゲーム」のボードゲームでした。

この頃はもうサンタさんではなかったので、直接もらっていました(笑)

当時人気番組でしたが、この番組で部長課長係長なんて言葉を覚え、その順序も覚えました。昇格とか降格、二階級特進とか(笑)

今みたいなソフトではなくハードの時代だったので、盤ゲームの大きいのが逆に高まったというのもありました。