遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。61回目は1985年の第2回です。
当時の生活から世の中に絡めて綴りたいと思います。
この年は中学2年から3年の年でした。
まずは高校受験でしょうか。
高校受験の時が最も勉強したような気がします(笑)
その辺は後にするとして、なにせ昭和が「60年」になったということもあり新時代的なものを感じました。
自分記憶として昭和40年代は皆無で、実質昭和50年代の中だけを生きてきた感があって、それが変わるというのは大きい事でした。
それまでの蔵前国技館からの両国の新国技館での「こけら落とし」の場所。こけら落としって言葉はこの時覚えました。
新しい国技館にギリギリ立てたものの、この場所限り…、時代の変わり目を感じた瞬間でした。
新入幕に、花乃湖、琴ヶ梅、寺尾、藤ノ川(服部)…と新しい力の台頭もありました。
2月は「太陽にほえろ!」で渡辺徹さん演じるラガー刑事が入院の形で一旦一線から外れました。
タイトルは「ラガー倒れる」。スケジュール調整だったようですが、かなり太り過ぎていて走り回るのも難しそうに見えました。
劇中で、徹底的に膝を痛めつけられ、入院時「骨肉腫」と判明、「このまま死んでいくのか?」とか思っていました。
その後数回は入院している設定でベッドでの出演のみでした。4月に復帰しますが、8月に殉職します。この件は後程。
3月は中二で最後の月となりました。
中二時代は前半から10月になるにしたがって状況が悪化しましたが、10月を境に好転しました。平たく言えば、いじめに遭いかかるところでしたが、最も嫌だった奴が転校してくれたおかけで、周りの状況も完全に好転し回避できました。運命の分かれ道を感じました。
そして4月、中三になりました。
春休み、母親と大喧嘩して数日口を聞かなかった時期がありましたが、やはり家族でやはり親子、いつの間にか元のさやに納まってるんだから不思議なものですね。ちゃんと家族というものが機能していた、、親には感謝です。あまり肯定されてきた感がなかったのは寂しかったですが…
プロ野球選手名鑑、なるものを初めて買いました。200円で。安い…。
期待の新人として郭泰源(西武)、広沢克己(ヤクルト)、武田光訓(大洋)などの選手がカラー写真入りで載っていました。基本全選手の名鑑はここではモノクロで載っていました。
そしてそのプロ野球、4月は阪神戦できついシーンがありました。バース・掛布・岡田のバックスクリーン3連発もありますが、その前の巨人・河埜選手の痛恨の落球がありました。2アウトだったのでランナーが走っていて点にもなりました。河埜選手がこの後、まともに機能しなくなってしまったのが実に残念でした…
ドラマ「ただいま絶好調」が始まりました。「西部警察」の終了から半年、待望の石原プロ制作のドラマがスタートしました。
クレジット上は渡哲也さんが主演ですが、実質の主人公は舘ひろしさんで、彼らの組んだロックバンドがアメリカのマジソン・スクエアガーデンへ旅立つまでの軌跡をユーモアいっぱいに描いた作品で、視聴率は??でしたが個人的には好きなドラマでした。
「ビートたけしのスポーツ大将」もこの4月スタートでした。2年間放送して、しばらく休止を経てまた2年間放送されました。
たけし軍の野球コーナーが最も好きでしたね。時々元プロ選手も出てきたりして。あとはカールルイスに似せた「カール君」をレールの上で走らせて100m走るコーナーもあったような。
一方で終わる方では、「欽ドン」が終了しました。正確には欽ドンのシリーズとして後も続いていきますが、「欽ドン!良い子悪い子普通の子」としては終了しました。タイトルは正確には「欽ドン!良い子悪い子普通の子おまけの子」というタイトルに変わっていましたが、小5から見てたこの番組、月曜の夜はこれ見て寝てたというのを中2までやっていましたが、当時萩本欽一さんが「休養」という事でレギュラー全番組を降板するという事で「視聴率100%男」のひとつの時代の幕切れ、という感じです。
受験の年になって勉強もしていかないと…という中で、いろんな面白い番組に出会ってしまう誘惑にも多々やられました(笑)
6月に初めて淡路島へ行きました。船で。おのころアイランドだったか、不思議と記憶がないのですが…。
その帰った後に家で見たテレビ番組で、石原裕次郎さんのショーみたいなのがやっていました。渡哲也さんはじめ石原軍団が一堂に会していたような記憶があります。
そしてこの月には「聖輝の結婚」がありました。映画「カリブ・愛のシンフォニー」での共演がきっかけで、あれよあれよという感じでした。
7月は夏休みに入りましたがこの時目覚めたのが体力づくりとDIYでした。
体力づくりは、体育の成績が悪かったので、体力上げないとと思って色々課しました。今あるか分かりませんがエキスパンダーなど買ったり(笑)
DIYは中学の「技術家庭」で学んだ「電機」が面白くて、どうせ課題もあるし何かつくろうという事で、当時あった「ハンデーエーモン」というホームセンターへ足しげく通っていました。中学時代にあまり校区外へは行きませんでしたが、ここだけは行ってました(笑)
最終的には導通のテスターを作りましたが、ホームセンターってそれまで殆ど行った事がなく、実に色んなものが売ってるとこだな、と世界が広がった感がありました。それまでほとんど近所の市場や書店しか行かない生活でしたので。
この年から父親の会社の旅行行事に参加しなくなりました。自分の受験もありましたが、いい年になってきたのもあり、家族全員で会社の旅行に出かけたのは前年限りで、会社が絡まない家族全員の旅行もこの84年限りとなりました。
8月は前記事にも書きました、日航ジャンボ機墜落事故が衝撃すぎでした。
▼当時の新聞切り抜きがありました
夏休み前後には、近くのラーメン屋へ餃子を食べに時々行ってました。
とにかく餃子に味噌だれの組み合わせが絶妙で、一般家庭の玄関を入ったような所にカウンターのあった店で、その直後何事もなかったかのように一般家庭の家屋になっていて、面影を見るべくもなくなっていました。店名の記憶も知る記録も残っておらず、幻のラーメン屋、そんなところが個人的にいくつかあります。
9月は阪神の21年ぶりの優勝機運が盛り上がる中で、巨人ファンとして肩身の狭い思いをしていました。
この年の阪神はとにかくイケイケでした。少々ピッチャーが悪かろうが打って取ったれ、って感じで。その勢いで日本シリーズで西武を破ったのは更に驚きでした。
この年は、英検4級を受験し合格し、続いて3級も受験しました。4級は一次の筆記だけでしたが、3級は二次もあって、一次は自分たちの中学校で試験をしましたが、二次は市内中心部の小学校まで出て、スピーキングの試験でした。
まだ4級までしかなかった頃で、この2年後に5級が新設されたといいます。3級のスピーキングはかなり心配でしたが、何とか合格できました。
中学最後の運動会(うちの学校では「体育大会」と称していました)があり、「やっと組体操から解放される」と思ったものでした。実際には高校でも一部やることになりましたが、ガッツリ組体操(くみたい)はこれで終わりになりました。今では一部で廃止されながら、まだまだ根強く残っていると聞きますが、タワーとかマジでやめてほしい、と思います。団結するどころか、わざと笑わすこと言う奴がいて力抜けてケガする寸前までいったのを度々経験したのもあったので。人と一致団結してことを成し遂げていく、的なことをここで経験しなかったので自分にとっては嫌なものでしかありませんでした。
中学が特にでしたが、強制ごとが多かったと感じます。昭和ですから、それが当たり前とも思っていましたが、今ならないだろうな的な。
この年の初めか?まだ中二の時に、偶々上ぐつで外へ出てしまったことがあり、体育の先生に横に並ばされてグーで顔面を殴られました。ちょうど人気ドラマ「スクール・ウォーズ」で山下真司さん演じるラグビー部の先生が生徒たちを並べて愛のムチを振るうシーンがありましたが、ホントそれでした。悪い事をしてるので罰せられるのは仕方ないし、殴られるのも当時は「殴られた」って感じだけで何もありませんでしたが、「先生、テレビの見過ぎじゃない?」とも思いました。
状況が違うので愛情なんか感じないし、今だったらこの先生大問題だろうな、という感じでしょうか。昭和だったので?殴られても親に泣きつく訳でもなく、親も学校に口出しする訳でもなく、先生と親が今みたいなギスギスしたものでもなく、それはそれで良かったとも思いますが。先生に殴られるなんて、日常茶飯事でもなかったけど、珍しい事ではなかったという感じでしたね。
カツアゲに何度か遭いました。大抵、何か買いに出かけたところを捕まって、必死で懇願して少しだけまけてもらった事もありましたが、自分から金取ったコイツらはまともな人生歩んでないだろうなと勝手に思っていますが、まともな大人になってたらなんか嫌ですね。これ以降、高校に入ってから金取られたり悪人に捕まったりした事は今まで一度もありませんが、中学3年間で3度カツアゲに遭ったのは良いものではないですね。坊主頭だったので中学生、とすぐ分かった不良集団が絡んできてました。
とか書いてると、人間関係でろくな思い出がない奴、みたいに思われるかもしれませんが、それなりに友達もいたし、別に不登校になるような事もなく、そんな事は考えた事もなかったですね。ただすごくいい思い出があった訳でなく、悪い思い出が目立つだけです。ただ、外にいるより家の中で見たTVに関する想い出が多くて、この記事の前半もTVがらみの事になってるのは、そういう訳です。
そういえば、中学時代は自分のわがままで友達とケンカしてそれっきりになってしまった事も何度かあり、後悔もしますがそういう運命だったのかなとも感じます。どっちみち高校以前の同級生とは誰一人とも繋がることなく現在生きているので、当時の親友とも別れ、それも後悔してなくて、という感じです。特に断絶した訳でなく、故郷を離れているうちになんとなくそうなってしまいました。
そう、この年の自分的キーワードの一つに「内申書」があります。「内申が…」なんてことをどれだけ同級生との会話で出てきたか…。高校受験には避けて通れないものでした。いまでもあるようですね。