続々トラベルとかナントカ

日本全792市を訪問した駅や旅の記録です

生活と世の中と思い出と(1982年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。73回目は1982年の第2回です。

当時小5から小6にかけての年でしたが、1回目と逆に当時の暮らしから、世間の様子と絡めてお送りします。

 

●小学生生活

「中学受験」

 …うちは公立の中学に上がると男子は坊主頭になる(強制的にさせるそういう時代でした)ので、という理由で私立中学を志し受験勉強を始め、前年後半から月に1度テストだけは受けていましたが、この主催元の塾に入ろうってことで、1月に入塾許可が出て、3月に教材・制服諸々揃えに、市の中心駅近くへ行きました。
 塾に制服があるなんて…って感じですが、ブレザーというものを小学五年生にして生まれて初めて着ました。
 そして3月からは、毎週日曜は終日塾通い、これが1年間続きました。小学生で日曜日を完全に潰してしまうのが、勿体なかったと思います今では。でも母親が毎週弁当を作ってくれたのは感謝でした。日曜の朝くらい寝たかっただろうに。

 この1年間をもう少し小学生らしく過ごしたかった、と後悔もしています。経験としては良かったですが…。
 これもあって、中学からはどんなに親に言われても塾だけは行きませんでした。だったら家で勉強する、と主張して。

 春休み夏休みは「特訓」と称しての講習参加でした。自分の中ではみんなとおんなじ小学校生活は5年で終わったような感覚で、6年生も普通に通ってはいましたが、勉強ばっかりしてる感じでした。

 ただ普段はろくに電車の駅もないような田舎の、狭い世界での暮らしだけだったのが、塾へ行くことによって、市の中心部の賑わいを知ったというのは見分を広めた意味では良かったのかもしれません。

ちなみにその塾とは…

兵庫県教育テスト協会なるところが運営する「英才教室」と地元では言われていたところでした。◯◯塾的な看板は掲げておらず、長谷川塾とか英才とか俗称しか分かりませんでしたが…。後の記事でこれに特化して書こうと思います。

 

「激動の太陽」

 …そんな中学受験勉強をしていましたが、好きなテレビは最低限は見させてもらえた感じでした。
 その中でも特に大好きだったのは太陽にほえろ!でした。
 そしてこの年は3人の刑事か殉職、1人が転勤という「激動の時代」で、すっかり様変わりしてしまいました。

 詳しくはドラマ編にて書きますが、初めて90分スペシャルという拡大版も放送され、番組放送開始10周年の節目を迎え、目まぐるしい状況でした。この時「太陽にほえろ!は終わった」というファンもいたくらい、変わってしまいました。

 

「リキ殉職」

 …「太陽にほえろ!」と共に、当時の小学生にとって人気を二分した刑事ドラマといえば西部警察でした。
 3月に寺尾聰さん演じるリキこと松田刑事が壮絶すぎる殉職を遂げ、その後石原プロ破門のニュースがまた衝撃でした。
 前年「ルビーの指環」の大ヒットで、歌にドラマに世を牽引してといってもいい寺尾さんが、急速に姿を消したように見えました。

 そういえば、クラス新聞みたいなのを教室の後ろに並べ立てた時に、このリキ殉職を知らせる新聞記事を貼っていた子がいた事を思い出しました。

 

「委員会活動」

 …小学5年生から学校で始まったのが「委員会活動」でした。「クラブ活動」は4年下半期から始まったのですが、より大人の世界に足を踏み入れて感覚でした。

 そして6年生の最初にはクラスの「委員長」というものがなくなった代わりに、「代表委員」というものを選出し、中学でいう生徒会的な活動へ送り出される事となり、それまで委員長には一度も選ばれなかった事のなかった自分が、その代表委員に選ばれてしまいました…。中学受験という制約された状況で、学校の活動を人よりしないといけない、という事で嬉しくないどころか、泣くほどでした。やってみればいい経験にはなりましたが、厳しい面はありました。

七夕行事だかで、体育館で全校児童が集まる中、七夕の説明をしていましたが、セリフが飛んでえーっとえーっとみたいになり、この時が大勢の人前で喋る初体験だったと記憶しています。

 

「修学旅行」

 …6年生という事で、いよいよ「修学旅行」でした。
 それまで小学校の旅行で、ほぼ兵庫県を出た事がなく、また泊まりの旅行は前年の林間学校以来2度目でした。
 行先は「奈良」と「伊勢」でした。
 初奈良県、初三重県で、奈良の大仏の鼻の穴をくぐり鹿に餌をあげて、伊勢では二見ヶ浦夫婦岩を見ました。
 どこに泊まったか覚えてないくらい、当時は地理に無頓着で、どっちかというと苦手科目でもありました。

 クラスの出し物で劇みたいなのをやってましたが、自分は「天の岩戸」で、岩戸に隠れていたので姿見せずでした(笑)

 

「川まつり」

 …地元の川の「川まつり」というのが毎年5月にありましたが、この年は鼓笛隊ということでクラスで参加し、河原の道を友達とリコーダー吹きながら歩いていました。去年30年ぶりに地元へ戻って、川まつりに40年ぶりに参加しましたが、今でもこの時の事を原点として思い出します。

「塾のバス旅行」

 …先述の、制服を着る塾が夏休みに「修学旅行」へ行くという事で、これがまた「伊勢」でした。
 学校とちょっと違ったのが「地曳網」をした事でした。回想の標本をとったりなどして。
 帰りのバスでビデオが流されていましたが、これがなんと「太陽にほえろ!」でした。当時の小学生にもいかに人気だったかという事で。
 ただ、小学生には少し難しい「長さん」主演回でした(笑)分かり易いアクション回とかじゃなくて。

「親戚宅へ1週間」

 …夏休みに、父を除く家族で伯母宅へ1週間もお邪魔しました。
 いろんな事がありましたが、そこから塾へ行ったりして、また普段とは違うバスルートに乗ったりと新鮮でした。
 伯父が見ていた阪神戦のナイターを「"王貞治物語"が見たい」とわがままを言ってしまい、当時はわがまま極まりないガキだったのを今でも恥ずかしく思います。しかし王選手(当時、助監督)を描いた特番ドラマは正直見れて良かったです。

「ハイベスト事典」

 …これも夏ごろに、いつの間にか百科事典が10数冊買いそろえてありました。
 自分向けなのか、親が自分の為にも兼ねて買ったのかわかりません。別にこれを見て勉強しろと言われた訳でもないので。
 当時「学研」の発行していた教科事典で、今でもたまにオークションで見かけます。
 これで特に歴史なんかは色々勉強したというか知識が広がった感はありました。

「ALBAウォッチ」

 …この年、自分の誕生日に運動会があり、徒競走がそれまでほぼビリかそれに近かったのが、2位を獲って嬉しかったものでした。
 学校から帰ったら、親がALBAの腕時計を誕生日プレゼントとしてくれました。生まれて初めての腕時計でした。 
 ALBAというのはSEIKOの時計ブランドのひとつで、この時計はデジタルでしたが、曜日表示があったのも嬉しかったです。
 また、腕時計のバンドに巻く小さなカレンダーを挟んでみたり、大人の世界に足を踏み入れた感がありました。

「木曜特訓」

 …3月から毎週日曜に塾通いをしていましたが、10月からは追加で毎週木曜日も通う事となり、学校から帰ったらバスに乗って市の中心部にある塾へ行き(塾へはバスで20分ほど乗って通っていました)、「木曜特訓」略して「木特」と呼ばれる夜の授業がありました。終わると21時ごろになっていて、塾から市の中心部にあるバスターミナルへ10分ほど歩いて、最終バスの21:35発に乗って家に帰ると22:00頃でした。
 小6でよくやってたな、と思いますが、この時は父親が駅から遠い職場からわざわざ歩いてバスターミナルへ来てくれて、一緒に帰ってました。会社で働いて21:30とかに待ち合わせて、22:00帰宅で明日また仕事…ってこれも大変だっただろうな、と今にして思います。その父はもう亡くなりましたが…。

 木曜日は「ザ・ベストテン」を欠かさず見ていましたが、この特訓により10月から翌2月までは全く見れなくなってしまいました。当時うちはビデオもなかったので、せいぜい母がラジカセに録音してくれたら聴けたかなというところですが、ほとんど諦めていました。

 

「ジャンボ宿題」

 …これも塾がらみで1983年の記事で少し触れましたが、年末の冬休み期間中に仕上げる事、と塾の厳命でやり遂げなければならなかった、大量の問題解きがあり、これを「ジャンボ宿題」とよばれていました。冬休みもろくにありませんでしたが、この時「はりま焼」というせんべいの砕いたやつのお徳用を食べながらやっていました。