続々トラベルとかナントカ

日本全792市を訪問した駅や旅の記録です

生活と世の中と思い出と(1983年②)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。69回目は1983年の第2回です。

当時の自分の生活から文化や当時の世相に触れる部分も含めて綴ります。

 

まず、1983年という年は自分が小学校を卒業し、中学校に入った年でした。

●ジャンボ宿題

 当時、私立中学に入る為に塾へ通っていました。この当時で小学生で塾通いする人間はあまりおらず、逆に自分は中学で周りのほとんどの同級生が塾へ行くのに対して、絶対に塾へは行きませんでした。この小学生の時の塾通いがしんどかったこともあり…。

 で、年末年始も休みなく受験勉強でした…。この小6の1年間は周りの同級生と違った生活をする事となり、もっと年相応の生活をしたかったな、と当時も今でも思うほどですが、とにかく冬休み期間中に凄まじい量の問題を解いて提出しなければならず、これを「ジャンボ宿題」と塾では読んでいました。その宿題を1982年の暮れから1983年の年明けまで、苦闘していました。傍には「はりま焼」というせんべいのお徳用を携えながら(笑)

●特訓、追込み

 前年10月から、毎週木曜日は6時頃~「木曜特訓」といって、集中講座を受けていました。小学校が終わってからランドセルを置いて、最寄りのバス停から20分かけて市の中心駅近くの塾まで行ってました。それまでは日曜だけだったので塾に専念できたのですが、これに平日が加わって、学校→塾となり、大変でした。その後更に土曜日も追加されて「土特」(土曜特訓)にも参加となり、勉強漬けでした。

そして入試の前週くらいには月~金の平日毎日追込み特訓がありました。さすがにこの時は、学校を1週間まるまる休みました。

毎日家まで誘ってくれる友達には申し訳ないと思いながら…

●私立中学入試

 講習や追込みと塾の事ばかり書いてきましたが、それもこの入試の為でした。

 3/1、2と2日間の入試、5教科にそれまでの全てをかけて挑みました。
 2日とも母親が付き添ってくれて、試験の間もずっと待っててくれました。
 2日目の全日程が終了した帰り道に、母がレコード店へ連れてってくれて、大好きな「太陽にほえろ!」のサントラを買ってくれました。

●解放

 入試が終わった事で、これまで1年余りの受験勉強の日々から解放されました。

 「自由の身」になりました!

 という訳で、それまで我慢していたものを全部開放し、中学入学前の特集号の形の学習雑誌を隅々読んで、先のサントラのカセットテープを毎日擦り切れるほど聞きまくって、テレビも見まくって…という具合でした。やっと普通の小学生に戻れた気がしました。

●坊主の準備

 入試前は私立中学に入るつもりではありましたが、落ちた時の備えも一応…という事で、2月初に初のスポーツ刈りにしました。

 (入試に落ちて)公立中学に入る場合、男子は坊主頭必須(そういう時代でした…)だったので、「青光りしないように」という事で、小6にもなると結構な割合で坊主頭もしくはスポーツ刈りなどの短髪にしていましたが、自分は2月初までまだ普通に髪を伸ばしていました。いきなり坊主は抵抗あったので、とりあえずスポーツ刈りに。これも結構勇気が要りました。

●不合格

 入試の結果が、試験の数日後割に早い段階で出ましたが、「不合格」でした。

 135人の定員に対して350人くらい受験してて、220番台でした、という結果が併記されていました。

 単に「落ちた」訳ですが、ショックとかでなく妙に淡々と受け止めていました。
 「解放された」事の方が嬉しかったのかもしれませんが、これで公立中への入学=坊主頭確定ともなりました。

●サイン帳交換

 小学校を卒業するにあたり「サイン帳」がクラスのあちこちから配られ、書き込みました。またこちらからも配り、みんなに書いてもらいました。

 今はどんなことをしてるのかな?と思ったりしますが、大差ないんじゃないかと勝手に思っています。プロフなんか書き慣れてないから恥ずかしかったですね。

●初の卒業式

 6年間通った小学校を出た訳で、思い入れもありますが、卒業式の練習をすごいした覚えもあります。
 「楽しかった」「修学旅行」みたいなそんな感じのやつですね。

●卒業旅行

 小学校を卒業後の3/30に町内の子供会でバス旅行があり、普段こういうの好きではなくあまり参加しなかったんですが、この時は楽しかったのを覚えています。

 

●中学入学

 3月の春休み中に遂に坊主頭になり、4月に初登校でした。
 小学校の通学路から更に倍の道のりを行かねばならず、初日から友達共々遅刻危機になるほどのドタバタで、入学式は父兄も参加だったので、母親が自転車で悠々行く中を初日から必死に走っていきました。

 そして中学の新しいクラスへ。小学校が同じ子と違う子(隣の小学校区の子)とがほぼ2:1くらいでしたが、新しい友達もできる事となり、初めて「制服」というものを着ての登校も新鮮でした。(小学校は服装自由でした)

 

●ラジカセ

 先にサントラのテープを聴いた事を書きましたが、親がラジカセをくれました。親のお下がりみたいな格好でしたが。

 これで「基礎英語」を聴きなさい、という訳です。
 で、毎月テキストを買って「基礎英語」を毎日聴いていましたが、他のラジオ番組も色々と聴くようになり、勉強よりもむしろ娯楽に使ってました(笑)
 けど、部屋にテレビなどあるはずもなく、ラジオすらなかったので、ラジオが部屋に入るだけで、すごく人生が豊かになったように思えました。

 時にはテレビ番組をカセットテープに「録音」して部屋で聴いたり。ビデオすらなかったので、自部屋でテレビが見れるのに近い感覚を当時なりに味わえたというものです。

●中1時代13

 今はもうこういう文化はないかもしれませんが、当時旺文社が毎月発刊していた学習雑誌で「中一時代」や「中二時代」…なるものがあり、このタイトルに年齢を表す数字が入り、「中一時代13」とか「中二時代14」というタイトルになりました。その中一時代を定期購入する事となり、特典で付いた万年筆をもらいましたが、この時生まれて初めて万年筆を手にしました。漫画家が使うものと思っていました(笑)

 今のようなインターネット、SNS文化がないので、1ヶ月に一度この雑誌を買って得られる情報がその時々の「最新情報」であり、芸能情報やドラマの事、アニメも含め、いろんな情報を得て、自分の世界が広がっていく事を実感しました。特に前年まで受験勉強下にあったので、余計に変わりました。

●学年1位からの凋落

 小6の時の皆とは一線を画した生活ぶりは、受験に落ちても決してダテではなく、中学に入って最初の学力テストでなんと学年1位をとってしまいました。自分ではまさか、という感じだったし、その成績は人に見せるつもりは全然ありませんでしたが、担任の先生が皆の前で公開してしまい、以後は違うクラスの同級生からも「1番」と言われるようになり、自慢どころか逆に恥ずかしかったです。正直皆から一番と言われるのが苦痛で、それから解放されたくてわざと勉強しなかったのもあるくらいでした。
 放っておくと、見事に成績が落ちてくれて、当然1番ともいわれなくなり、自分としてはやれやれという感じでホッとしました。
自分のペースで過ごしたかったんだな、と今振り返っても思います。勉強で1番になりたかった訳ではなかったので。

●明るく活発に

 それまで結構どちらかというと「暗い」と言われていたのが、勉強から解放され、かなり活発になりました。自分でも驚くくらいに。
 これまでの人生で、単純に一番楽しかった年はいつ?と聞かれたら、迷いなくこの1983年を挙げます。

 とにかくめちゃ活発に振る舞い、言いたいことを言って、また人がめちゃくちゃ寄ってきた時でもあり、自分的に前年と180度人生が変わったように思えました。しかし、その事は後に人が引く事にもなり、ちょっと調子に乗り過ぎていたな、とも感じます。あまりにも素直に生きすぎて、周囲への気配りが無縁な時期でもありました。

●大嫌いな組体

 中学に入って一番嫌だったこと、と言っても過言ではなかったのが、運動会(「体育大会」といっていました)の組体(組体操)でした。

 いろいろやりましたが、ピラミッドまでは良かったものの、3段タワーが嫌すぎました。チビだったのでどうしても上になり、また一番小さい訳でもなく、3段の2段目ばかりやらされて、みんなとなかなか合わなかったり震えたりしてしまい、迷惑をかけたものでした。
 なんであんなのやるんだろ、としか思えなかったですね最後まで。昭和の中学校は軍隊の延長線上にあるものが多かったように思えました。「宿泊訓練」と称した泊まり旅行がありましたが、これも全体行進が揃うまで終わらないとか、今はもうこんな教育やってないのでしょうかね??

●伯母の死

 10月に今は亡き大阪のエキスポランドに行って、また生まれて初めて大阪城を見たりしていましたが、その翌日に母がおらず、父だけになっていて言われたのが「お前にはきょう学校を休んでもらう」というセリフで、何かと思ったら伯母(母の姉)がなくなったとの事、それまで母方の祖母は小4の時に亡くなりましたが、伯父伯母レベルでは初めてで、母より20年上でしたがそれでも56歳、早世でした。前年夏にこの伯母の家へ何泊も止まらせて頂いて、大変お世話になったばかりでした。
 今みたいに会館へ行ってのものではなく、自宅で通夜があり告別式は近所のお寺でという感じでしたし、家族葬なんてないから結構な人の行き来がありました。

ポケコン

 当時はPCなどまだマニアの持ち物でしたが、ポケコンでいいからとにかくパソコンというものが欲しくて、親にねだりまくってようやくの想いで買ってもらい、とにかくこれを使い倒していました。本に載っているプログラムを組んでゲームをしていただけで、とれも一画面1行のなかでドットで表示されるだけのものでしたが、それでもコンピュータを使って遊べることが幸せでした。
 カシオの「PB-100」という¥14,800のポケコン、もう動作はしていませんが、今もまだ本体は持っています。

 

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