三重県鈴鹿市の旅、第2弾は近鉄/鈴鹿市駅からのアプローチです。
(2012年11月当時)
▼鈴鹿市駅から南西へ100mほど歩いて、川の流れる一帯へ出てきましたが、そこにいくつも小橋が架かっていて、その中で大きな(道幅のある)「寿橋」周辺の様子です。
大きな橋のように見えますが、長さ自体は何メートルもあるようなものではありません。ただ昭和6年当時の写真があるなど、歴史ある橋ではあります。
▼鈴鹿市駅から寿橋を渡ったところには銀行がありました。
当時は三重銀行でしたが、その後2021(令和3)年に第三銀行に合併される形で「三十三銀行」となっています。
▼通りがかりには、こんな渋い建物がありました。
前面もなかなか懐かし気な雰囲気ではありますが、横からの見た目が渋すぎました。
▼西へ進んで、鈴鹿市駅から約5分くらいの所にある「専修寺 神戸別院」です。
神戸は、この辺りの地区名ですが「こうべ」ではなく「かんべ」と読みます。
真宗高田派という一派の寺院で、高田派の本山が三重県津市の専修寺という事で、そこの別院という事です。
▼鈴鹿市「神戸宿」昇龍の里めぐり
という形で、イベントが組まれていました。
この辺りは神戸藩の領地で神戸城のあった場所であり、その一帯で色々とめぐる企画のようで、寺院の非常に多い寺町的なエリアでもあるのですね。
▼神戸城下の面影か、街並みの素晴らしい部分も所々にありました。
▼ここにもお寺がありましたが、これは萬福寺という真宗大谷派のお寺です。
▼旧制神戸中学校正門
というのがありました。
現・神戸高校となっていますが、三重県内で5番目の旧制中学として1920(大正9)年に創設され、この校門はその2年後の1922(大正11)年に建立されたとありました。
現在では創立100年を越えた伝統校で、鈴鹿市内には鈴鹿高専という国立の進学校がありますが、公立では市内で最も安定した進学校とされているようです。
▼この時の旅のメインともいえる「神戸公園」に着きました。
神戸城址として在りし日の姿を垣間見る事ができ、また遊具などもある空間です。
▼神戸城のお堀だったところです。
当時の姿を偲ばせてくれるもので、当時のもので遺っているのは本丸の石垣とこのお堀の一部といいます。先の神戸高校も神戸城跡の敷地内だった所にあります。
▼お堀のところから上って通路を進むと「神戸時代まつり」の幟が立ち並んでいました。
そんなに観光客で賑わうようなところではありませんが、ちょこちょこ観に来ている方々がいたという感じでした。
▼石上の積み上がった通路を通っていくと、上に何やらありました。
休憩所みたいな感じでした。
▼石垣が大変印象的な城址でした。
特に何か建物のある城址ではないですが、その分石垣やお堀、地形的なものなど城郭を感じさせるものが強く、見応えはありました。
三重県というと、津城や伊賀上野城など分かり易いものがありますが、こういう所で往時に思いを馳せるのもとても良いと感じます。
▼石垣周りをぐるっと回れば、このような本多氏の幟がズラリと並んでいました。
この神戸の地は当初天領でしたが、その後石川氏が入り、18世紀半ばから明治維新まで本多氏が7代約140年にわたり藩を治め、各藩主名を記した幟がここに並んでいました。
初代藩主・本多忠統(ただむね)は文人大名としても有名で、荻生徂徠の門下生でもあったといいます。
▼上にのぼって、あったのはやはり休憩所でした。
この城跡は天守もなければ櫓もなく、唯一造られた建物ということになるでしょうが、少し高いところにあり、ゆっくり休憩して展望するのも良しで、良いスペースではありました。
▼見晴らしはこんな感じでした。
そんなに高いところにある訳ではないので中途半端ですが、それでも街並みの一部は上から見る事はできました。緑がだいぶ阻んでいましたが…。
▼城郭敷地周りとそこにあった神戸城跡の説明板です。
元々は神戸氏というのが古くに築いていたのがその名の由来です。
1580年には金箔も用いての五重の天守閣が築かれたとありましたが、15年ほどで桑名に移され、その後二度と造られる事はなく、石垣だけが残ったとありました。立派な石垣の上には立派な天守が乗っていたのか!という事ですが、これを復興天守として建てる事はないんだろうな…と思いながら見ていました。
▼城郭の敷地内です。
城は埋められ、高校の敷地になったり色々しましたが、公園として遺され、保存されるところはされただけ、まだよかったと思います。
鈴鹿といえばサーキットがまず出てくるでしょうが、好みの別れるところやアクセスもあり、とりあえず「駅から歩いて行ける所での観光」となると、個人的に鈴鹿で最も好きな場所はこの神戸城跡です。
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