(2011年8月当時)
●マンホール
まずは結城市のマンホールから。
市の花であるユリが分かり易く描かれていて、緑のは市の木とされるクワでしょうか。それだけか?という感じもしなくもないですが…。
この訪問時、ここに泊まりました。
「結城第一ホテル」です。
結城駅の南口から東へ歩いて約2分、割にひっそりした中でこんな風に建っているので、大変分かり易いです。
●結城駅前にあるショッピングセンター「しるくろーど」。小都市の割にはなかなかなの規模の建屋が構えられていました。
1984(昭和59)年に結城市内の商業者で組織された協同組合と、後にイトーヨーカ堂となる量販店「ヨークマート」との共同事業という当時としては先進的な手法でオープンしました。
開業20周年を迎えたしるくろーどに転機が訪れたのは2004年、核となるヨーカ堂がかねてより撤退を表明していたのですが、遂にその時が来てしまい、代わって「コモデティ・イイダ」というスーパーチェーンが核店舗となり、なんとか存続、同年9月にリニューアルオープンされています。
これは今から4年半前の姿になりますが、こうやって振り返るにつけて、「今もまだあるのかな?」と気になって確認してしまいます。そうすると、「今は亡き」モノになっている事も少なくない現実に出くわします。小都市の駅前ショッピングセンターが時代の潮流に呑みこまれているという現実に。ここはまだ存在するようで、安心しました。
●結城市民情報センター
結城駅北口のすぐ右側にある、なかなか壮大な建物です。
2004年開館とあり、図書館を主とした施設で、多目的ホールや天体ドームなどもあります。
天体ドームでは様々な望遠鏡が設置され、天体観望会も頻繁に実施されているようで、既設に応じた天体が選ばれているという事で、その時季に適した天体を気軽に観測できるように配慮されているようです。
駅北口から伸びている県道302号(結城停車場)線が駅前の商店街として形成されていて、カーブを繰り返しながら続いています。県道自体は約600mのみとなります。
ここ何十年と変わっていなさそうな街並み、下側の写真の旅館「石崎」という所は、昭和2年上棟の老舗ですが、現在は旅館としては営業していないようで、ただイベントスペースなどで活用はされているようです。
これも上の写真の延長上の県道302号上にあるものですが、黒い蔵の建物で「簗島邸居宅」とありました。明治13(1880)年築だそうです。
結城にはこのような蔵の建屋が多くあり、「結城の蔵」として札が立っています。
●鋳銅阿弥陀如来像
やはり県道302号を横道逸れた所にある「常光寺」という時宗のお寺の入口(道路沿い)にあるインパクトあるこの仏様は「金仏(かなぶつ)さん」の名で親しまれているようです。
その背後には銘文が描かれているという事で、図示の形で載っていました。
造立に関する内容もあり、宝暦7年との文字があり西暦にして1710年にあたります。浅間山の噴火があった年で、翌年にも再び噴火しています。ちなみに富士山の現時点で最後の噴火もこの宝永年間で1707年の事で、同年には南海トラフ系で最大規模といわれる宝永大地震が発生し、甚大な被害が出ています。
また江戸幕府の将軍では徳川綱吉が没した翌年にあたり、前の元号が元禄で文化の花ひらいた時期で、次の元号が正徳という新井白石の政治が行われた時期、そんな間の激動期だったといえるかと思います。
この鋳造には相応の歳月を要したと思いますが、そんな時代の中で人々はこの金仏さんに少なからずすがったのではないか、と想像してしまいます。
…ですが、他の説明板には、この金仏の修復が戦国時代に行なわれたなる記載があり、ではこの宝永年間の記載は何なのか??よく分かりませんでした。
●定光寺
金明山天照院常光寺といい、時宗のお寺です。
時宗の祖として有名な一遍が、他阿という人物らと共に諸国を巡り念仏信仰を広め、1297年建立され、それから300年を経た1598年に現在地に移されたとありました。
右側の足利銀行手前にある茶色の建物、ここにもまた「結城の蔵」の立札がありました。「会津屋呉服店」とあり、昭和5(1930)年築だそうです。荒物商・紬問屋を経て、現在は呉服屋店舗兼住宅だそうです。
この一本の通りを少し歩くだけで、昭和初期にはすでにあった建物がいくつも残っているこの結城の街、なかなか観光資源に恵まれた場所、と感じました。
まだまだ「結城の蔵」は見つけられるので、これを目当てにこの街を旅されてみても良いのではないでしょうか?と思ったりもしました。