(2011年3月当時)
●たがわマップ
駅前の周辺図です。
右上から左下まで、対角線ではないものの斜めに線路が通っていて、当駅は地図の真ん中よりやや左下の、線路が三つ又になっている部分です。
対して、ほぼ真ん中あたりにあるのは、田川市内のもう一つの中心駅である「田川伊田」駅です。地図右側に各施設が番号つきで紹介されていますが、殆どのものは田川伊田駅を囲むように点在しています。
伊田駅の方はこの時行かなかったのですが、行っておけば…と少々後悔もしました。ただ、この後藤寺-伊田間にも結構点在しているので、伊田方面へ向かってのアプローチもありかな、というところですね。
駅を出て右側を向いたところは、このような道路になっていました。
手前から右折して、更に左折するのですが、この部分が駅の線路を跨ぐ形となっていて、出口の反対側へ向かう時もこの道路を通る事となります。
こっちがメインの駅前道になるかと思いますが、上の写真の道路と繋がっています。
こちらは駅を出て左前に位置する感じです。
福岡の名物として名高い「ひよ子」でお馴染みの「ひよ子本舗 吉野堂」の店舗がありました。
「ひよ子」は1912年に、同じ筑豊の都市である飯塚で誕生して以来、既に100年を過ぎた伝統ある銘菓ですが、この当時は2011年で、99年というまさに節目を迎えんとする状態でした。
ただ、このお菓子が博多に進出したのは昭和30年代になってからで、その後福岡を代表するお菓子になっていったという訳です。
当日は雨ふりで、こんな風に景色を撮るのもなかなか大変でした。
●田川ごとうじ銀天街
上の写真の駅前商店街を進んで程なく、横を見るとこのようなアーケード商店街がありました。
これはもう入るしかない!ですね。
●銀天街を往く!
アーケードに入って、この「後藤寺」という大きな赤い提灯はインパクトがありました。
内装はかなりきれいで、華やかに装飾されていて、活気ある雰囲気なのですが…、肝心の店が軒並みシャッターが下りてしまっていて、ゴーストタウンを歩いているようでした。
この田川は、かつては炭鉱で栄えたいかにも筑豊地方らしい街で、ここも炭鉱操業時は大いに栄えたようですが、1969(昭和44)年をもってすべての鉱山が閉山となり、人口も昭和33年当時は10万人いたものが、今では半減してしまっているという現状です。
当時の栄華はこの商店街の華やかさな内装に表われ、その後廃れていった街の様子はこのシャッターのおりた店の並びに表われている、そんな気がしてならないです。
これらの店たちは一体いつまで「現役」だったのか、と思いを馳せずにはいられませんでした。ここの限らず、北海道でも同様にかつて炭鉱で栄えた街を見ると、いつもその事を感じさせられます。
という大きな絵も商店街にありました。
おじいさんから若者へ、後藤寺の歴史を後世に継いでいこう、という表われでしょうか。
また「伝統とふれあいの街 田川ごとうじ銀天街 藤薫る、出会いのみち」として、写真が数枚大きく載せられていました。
廃れゆく街への危機感がありありと見えた気がしました。
こんなに天井部分が華やかに飾りつけてあるのに、開いていない店舗が多いのは大変勿体ないですね。
どこの町でもこういう商店街の活性化は難題として突きつけられているとは思いますが…。
ちなみに田川市の中でも、伊田よりもこの後藤寺の方が衰退が顕著といわれ、2004年の福岡県の計画では田川では伊田が拠点、後藤寺が復拠点、という位置づけだそうです。
ここは文字通りアーケードのない、「太陽の昇る」通りという事でしょうか。
これまたシャッター、シャッター…という感じの商店街ですが…。
それでもこの通りは冬に市が開催されたり、夏にも納涼夜市が行なわれたり、スポット的には賑わうようです。
昭和30年代には、この通りは「朝映通り」とよばれ、実際その名前でゲートがつくられていましたが、今の名もほぼこれを受け継いでいる形ではありますね。
「プロムナード 上本町商店街」と銘打たれた入口から来ましたが、ここもまた内装は結構豪華。
シャンデリア様の電灯とか、両サイドの飾りつけとか、天井なども寂れた感はなく、暗い通りでもない…でもシャッターの下りている店が実に多かったです。
八女茶のお店があるところに筑豊らしさが感じられます。
●再度駅まで戻って
上本町から駅の方へ戻り、銀天街の入口方向へ再度。
右手前の家具店は現役じゃないだろう、と勝手に思って探していたら、この店が開いた格好の写真がありました。しかも「モバイルたがわ」なる地元関係のページに。ただしそれがいつのものかは分かりませんが、そんなに遠い過去の事ではないと思います。
以上、いろんな商店街を見てきましたが、その外にも目を転じれば、更にかつては炭鉱で栄えたのに…感が強くなるのではないかと思います。
次は伊田の方にも行ってみたいものです。