(2013年3月当時)
▼JR稲城長沼駅から、駅前の短い通りを抜けて程無く、こんな「さわやか信用金庫」というのがありました。
東京に本拠のある信金で、東京の信用金庫が合併しててできたもののようです。
向かいのお店が文化住宅の1F部分にあるような感じでした。
▼「ペアリーロード稲城」と表記されたゲートが建っていました。ペアリー〇ードのように見えますが、ペアリーロードです。
ゲートの上にキリンが乗っかってました(笑)
しかしところが…
後年2016年になって、このキリンのモニュメントが撤去されたようで、今はないようです。「在りし日の姿」になった訳ですね、この写真。36年間親しまれてきたという事で、1980年頃から使われていたのですね。
▼幹線道に出くわしたところです。
ここから稲城駅方面へと歩いて行くので、このすぐ下の写真の向こう側へと進みます。
▼稲城長沼の駅から徒歩5分程度の地点に、青渭(あおい)神社という神社がありました。
青渭というと「青渭通り」という通りがあったりもします。さんずいへんに「胃」だなんて、そんな漢字あるんですね。
創建年代は不明ながら延喜式に記載があるなど、多摩八社とよばれるうちの一社でかなり歴史を持った神社のようです。
▼拝殿を近づいてみてみると、赤い柵が目立ちます。
▼この神社では獅子舞が「稲城市指定技芸」とされています。
毎年10月1日の神社祭礼当日に行なわれるという事で、途中大正時代に中断があったものの1937(昭和12)年に復活し現在まで続いているといいます。またこのような獅子舞がかつては市内至る所で見られながら、現在はここ含めわずか2ヶ所しか残っていない、とも記されていました。
▼同じ神社の拝殿柵に「東京のナシ栽培の起源」なる案内板もありました。
江戸時代の元禄年間に当時の代官が旅した地から苗木を持ち帰ったのがその起源、なる記載がありました。
▼神社を出てここが青渭通りとされる道です。
神社の名前に由来して名づけられたといい、神社ありきなのですね。
ちなみにその通りの表示の下に地名があり「稲城市大丸」となっていました。「だいまる」ではなく「おおまる」と読むそうです。
この辺りには大丸城というお城があり、室町時代の山城とされ、またこれ以前の時代の遺跡も見られ、大丸遺跡として存在するといいます。
▼青渭神社の境内にナシ栽培の起源につき説明板がありましたが、程近くにこのようなナシ園がありました。
稲城市の特産物として認識され、ここでは庭木に「ビャクシン類」というものをを植えないようにとの注意がきがなされていました。
東京都で畑を見ると、貴重なものを見たような気分になります。
▼更に稲城駅へ向かう道中に慰霊碑群が。
「平和の碑公園」とされる場所です。
大東亜戦争の終戦50年を迎えて建てられた碑や、日露戦争の戦役記念碑等が並んでいて、そこに立つ木々も立派にそびえ立っていて、それなりの雰囲気を放った場所と感じました。
▼ここは長沼城・報恩寺跡とされる地です。
稲城長沼の長沼という地名ですが、源頼朝に仕えた武将の名前が長沼だったのですね。
すぐ近くに大丸城跡というのがあって、ここにも城跡とは!という感じでした。時間軸が異なるようで、大丸城は室町時代、ここ長沼城は鎌倉時代と、存在時期が違っていて、拠点とされた場所も微妙に変わったという事でしょうか。
▼最後のこれらの写真です。
柵に「三沢川」と書かれていたのが、なんか面白かったです。
この三沢川は多摩川水系の支流という事ですが、春にはさくら回廊として見事な桜並木となり、またその夜にはライトアップの素晴らしい画像が見られました。春の夜は要チェックですね、今から一番遠い季節となってしまいましたが…
という訳で、稲城市の駅間歩き旅でした。