(2006年8月当時)
▼今から15年前の風景で、この時初めて訪ねた古河でしたが、これ以降もう15年も来てないのかと思うと、時の流れを感じます。
ここは古河駅西口からすぐの通りです。
右側に見える日本海庄やは既に閉店しているようです、かなり近年に閉店したようですが…。
▼同じような地点を反対から見たもので、古河駅方向へ振り返ってのカットです。
ブルーの駅舎なので、青空には全く映えませんが、白い雲には映えるというものです。
▼上の写真の駅画通りを進んで交差する道路がこの茨城県道261号(野木古河線)です。ここは古河市本町とありますが、駅西は「本町」で、東側の駅前は「東本町」となっています。
また「日光街道 古河宿」の幟がはためいていて、ここが宿場町であった事を示しています。
このカットはそこを南へ進むところで、左折すると県道250号(古河総和線)に入り、古河市役所に行き当たるというロケーションです。
▼幹線道を外れて風情ある通りの風情ある建物へ。
坂長(さかちょう)という「お休み処」と称している施設で、市民交流の促進を図り、ホールや和室の施設貸出や、お土産処にお食事処と色々と入った施設との事で、今も普通に存在している事を確認しました↓
▼肴町の由来
と看板が出ていました。
肴は「酒のさかな」の「さかな」ですね。
古河城の裏木戸を経て、城内に様々な食料品を供給したところだそうです。
▼古河歴史博物館 文学館
という表示があり、博物館は古河城の諏訪車跡地にて、1990(平成2)年に開館した施設です。
古河駅から徒歩15分くらいの少し離れたところにありますが、周りは自然に恵まれた感があり、なかなか良い立地にあるなと感じました。そんなところで古河の歴史を学ぶのも良いかなと。
室町時代の「古河公方」として足利氏の一族(将軍家ではないところ)が名乗ったという事が、個人的に「古河」を知った最初でした。
▼古河で個人的に大変印象的だったのが、このスプリンクラーでした。
別にこれが名物でもなんてもないと思いますが、インパクトがあったので、それがその土地ならではの思い出になるというものですね。
▼博物館の近くにあった「鷹見泉石記念館」です。
鷹見泉石(=たかみ・せんせき:1785-1858)は江戸末期の古河藩の家老でありまた蘭学者で、ここは泉石の没した地であるとの事です。
幕末の開国を迫られる対外的な危機意識の高まる中で、さまざまな学問を吸収し、それらの学者と広く交流を持ったといわれ、洋学界に多大な寄与をしたとされる人物です。
竹林なんかもあって、マイナスイオンに満ちた空間を感じました。
▼古河歴史博物館のエリアを出て、古河駅へ戻る道中で出くわした「永井路子 旧宅」です。
永井路子氏(1925-)は歴史小説家でにして古河名誉市民との事で、3歳より古河で育ち今も御存命のようですが、1995(平成7)年に歴史小説の「断筆」を宣言し2000(平成12)年には東京へ移住、その後2003(平成15)年に旧家を修復し、一般公開されるようになったといいます。
▼そしてこちらは「篆刻美術館」です。
酒類卸売りを営んできた平野家の耐火蔵として1920(大正9)年に建てられたとありましたが、現在は日本で唯一の「篆刻の美術館」(名前まんまですが…)だそうで、それは貴重な存在ですね。
▼最後はこの碑ですが「古河城下高札場祉」です。
よくある「高札跡」で、江戸時代に様々な連絡事や御触れの張り出されていた「高札」のあったという場所です。
という訳で15年前の旅を、ブログ記事に書く形で振り返ってみましたが、歴史・文学的要素の濃い街だったと思いましたこの古河、また久々に訪ねてみたいものです。