愛媛県今治市、愛媛/今治① 日本三大水城の広大なお堀へに続く今治市の旅第2弾です。
(2016年12月当時)
▼ここからはいよいよ今治城へ入っていくところです。
今治城は1602年に藤堂高虎によって築城されたとあり、また石垣はほぼ江戸時代当時の姿を残しているとありましたが、建物については殆どが1980年代以降に造られているようですね。
明治の初めに廃城となり、更には同時期に爆発炎上もし破却されたとあり、それから100年近く、石垣や堀などの遺構だけを残していたのでしょうか?1970年代のこの辺の写真があれば是非に見てみたいものです。
▼近くにこんな像がありました。
今治名誉市民・檜垣俊幸翁顕彰碑 とありました。
このような像がつくられているという事は昔の偉人…、と思いきや、今現在でも御存命の方だそうです。1928(昭和3)年生まれで現在95歳、今治造船(株)のグループ社主の人物で、造船業の隆盛に多大な功績のあった人物として、2008(平成20)年には今治名誉市民の称号を与えられ、このように讃えられていました。
▼今治城のお堀と魚との関係について説明板がありました。
日本三大水城とされる今治城ですが、そのお堀の水は海に接しており、海の魚と川の魚が同居するという大変珍しいお堀になっています。昔は釣りもできたようですが、今は禁止されているようです。
▼ちょっと上り坂になった部分を上って入っていきます。
右側が門ですが、鉄(くろがね)御門といいます。ここが建設されたのがつい最近の2007(平成19)年の事だそうで、江戸時代の史実に基づいて可能な限りで忠実に再現されたといわれていますが、これが2016年当時の写真なので、建てられてから10年経っていなかった訳です。
▼上の写真の「鉄御門」の手前にあったという「高麗門跡」です。
築城した藤堂高虎による技法で、防御を二重にしたり、やぐらから集中攻撃を加えたりと、攻防両面に機能的な構造になっています。
藤堂高虎は、関ケ原の戦いで武功を得て、それまでの宇和島の領地に加えられる形で今治藩初代藩主となりますが、黒田孝高、加藤清正と共に「築城三名人」と称されるほど数多くのお城の縄張りを考案したとされる武将です。
▼鉄御門をまさに入っていくところです。
「鉄」って感じです(笑)
▼鉄御門を入った先のところです。
先述の構造の話ですが、入口が鉤型になっていて、櫓が囲うように立っていて、壁から攻め立てて敵の侵入を防ぐという具合です。
▼鉄御門を入って左へ向いた目線です。
主な構造物は1980年代以降の再建ですが、石垣は遺構だといいます。
これを向こう側へ進みます。
▼今治城の案内図です。
英語での説明もありました。
▼築城した藤堂高虎公の像がありました。
今治城といえばこの人物、な訳ですね。
▼これは御金櫓という櫓です。
かつての東隅櫓をもとに、明治期まで生きた藩医の写真をもとに復元されているといいます。ここに御金蔵があったようですね。
この櫓は公開されていて、この時は「郷土ゆかりの作家たち」という展示が催されていました。
▼鉄砲で外敵を狙い撃ちする防御壁がありました。
▼こちらは山里櫓という櫓です。
二の丸西隅に、先の御金櫓の建設から5年後1990(平成2)年に建築されました。
▼こちらは鉄御門の武具櫓です。
先の御金櫓、山里櫓と共にここも観覧ができるようになっていて、天守内部と共に共通観覧券という事で大人料金520円です。
建物の内部観覧をせずに外から見てるだけなら無料という訳です。
▼ここから先は天守閣を片っ端からあげます。
今治城は「模擬天守」で、実際にここにこのような天守が建築されていたか?はよく分かっていません。ここで建てられて、藤堂高虎が次に赴任した伊勢国の亀山城へ移築されたとの説もありますが、その亀山城を参考に造られたともいわれています。
ここに実際にあったかは分かりませんが、街にこのような大きなシンボルがあると、観光も潤うというもので、天守があるのとないのとでは全然違うと思います。
今治には2006(平成18)年に初めて行きましたが、その時はお城に行ったかどうか忘れたまま、10年後のこの2016年に再び訪ねました。あとで見返したら2006年には行ってなくて、この時ちゃんと行っておいて良かったとつくづく思いましたが、訪問して損はないお城でした。
これで終わり、と思いきや次に続きます。この近くに他に見るものがありましたので。