茨城県土浦市、茨城/土浦① 土浦の渋い街あるき につづく土浦市の記事第2弾です。
(2016年4月当時)
▼前記事では街なかを中心にお届けしてきましたが、ここでは亀城公園(土浦城跡)を中心にお届けしていきます。
という事で、亀城の案内図です。
土浦はかつて何度も水害に見舞われながら水没する事なく、これが亀の甲羅のように見えた事から亀城と呼ばれるようになったそうです。
最初の築城時期は定かではなく、伝説レベルでは平将門が940年前後に砦を築いたというものがありますが文献上証明する根拠がなく、現在の形が造られるようになったのは、江戸時代になってからだそうです。
17世紀中は色々な建物が造られたり、改修がなされたりと盛んであったようで、明治初めの1873(明治6)年に廃止され、新治県の県庁として機能するようになり、1899(明治32)年に亀城公園になったといいます。
▼上の図で堀がぐるっと取り囲んでいましたが、堀の周辺に建っている樹が川面に映り、鯉のぼりが両サイドからズラーっと吊り下げられていました。
桜もまだ咲いていたり、4月10日頃だったのでピークは過ぎたかな?と思いましたが、地理的にこの辺だとまだまだ満開感ありという感じで、満開の末期そんな感じでしょうか。
▼聖徳太子堂
というものがありました。
1936(昭和11)年に別の地(桜川の畔)で、聖徳太子を祀るお堂として建てられ、その地の土手改修に伴い、1965(昭和40)年に当地へ移転されたといいます。
お堂の由来については前半に経緯が記されていますが、中盤以降は太子のプロフィールがひたすらに書き連ねてありました。
▼屋台のお店が閉じた形で並んでいました。
このカットで見ると、満開感があると思いますが、土浦桜まつりというのが市内何数か所にもわたって行われているそうで、その絡みで屋台が出ていたものと思います。
▼鯉のぼりが並んだところを更に接写したものです。
時期的に桜の花びらがだいぶ散ってしまっていて、それらが川面に落ち、またその川面が黒っぽいとあって、本来川面に映えた美しい鯉のぼりの群れが優雅に泳ぎまくる、という画になるはずのところが、正直ちょっとドブ臭い感じになってるな、というのが個人的感想でした。(あくまで個人の感想です)
▼土浦城の東櫓です。
2つあるのではなく、同じものを別角度から撮っているものです。
白壁と桜の絡みが美しく、良い時期に訪ねたなとつくづく感じました。
この建物は公開されていて、9:00~16:30(当時)に大人105円(100円じゃなく!)で入場の形になっていました。この時、中には入りませんでしたが「博物館不足展示館」と冠してあったので、展示物があったと思われます。
▼土浦城の楼門とその周辺です。
白壁のいかにもお城をイメージさせるものでした。
土浦城は天守を造られなかったので、ここにも天守がない訳ですが、その代用というか補完するような象徴的な建物と感じました。
▼こちらは西櫓です。
東櫓と共に建てられたようです。
建造物としては、楼門とこの西櫓と東櫓、主要どころはこんなものでしょうか?
この西櫓は1949(昭和24)年の台風(キティ台風といいます)で小破し、翌年に復元を前提地して一度取り壊されています。
しかしながら、その後なかなか復元が叶わず、礎石のみ残る状態でしたが、市民の浄財により40年以上も経った1992(平成4)年にようやく、復元されるに至ったという事でした。
▼亀城公園を出て「亀城公園前」バス停です。
観光名所でもあってか、沢山のバス停標識が建っていました。JRバスに関東鉄道に篠コミュニティバスにと…。
▼亀城公園前バス停、関東鉄道の時刻表ですが、土浦駅行きは多数の便が出ていて、これならんの心配もなく待っていられるというものでした。
尚、土浦駅までは3停留所分、バスで3分ほどで着き、徒歩だと15分くらいかかります。
という訳で、亀城公園に始まり亀城公園に終わった記事でしたが、土浦市第二弾でした!