愛知県小牧市、愛知/小牧① 小牧の寺町と文化財の山車 につづく小牧市の記事第二弾です。
(2011年5月当時)
▼さて、前回は小牧駅から寺社街を通ってきてがメインでしたが、ここからは小牧山へ入っていきます。
「小牧・長久手の合戦の虎口」の説明板がありました。
小牧がどこにあるかは知らなくても、この合戦の名前で「小牧」という地名を知る事となると思いますが、その「小牧」に来た事をつくづく思い知らされました。
虎口というのは城郭の出入口の事です。
▼こんな所を通って入っていきます。
▼史跡 小牧山での火気使用は禁止です
と広場スペースにありました。
小牧山自体は標高86mの低い山です。
これはGWの訪問でしたが、桜の名所だそうで、もう少し早く行っていれば絶景を見れたのかもしれません。
小牧城は1563年に織田信長が築いたお城で、信長が美濃へ移るまで尾張の中心と占める地と考えられるようになってきているそうです。移った時に一旦廃城になっているようですが…。
小牧・長久手の戦いって1584年の事で、信長の死後なんですね。
▼史跡 小牧山 帯曲輪地区案内図
というのがありました。
帯曲輪というのは、曲輪の外側に帯状に設ける曲輪だそうで、城の守備力をより強化する狙いがあるといいます。
▼小牧山の一角に、井伊清市先生之碑 というのがありました。
昭和初期から50年余りにわたり、地域住民の福祉向上やボランティア育成に力を注がれた人物、という事でした。
▼この小牧山では、こんな丸太の階段?が印象的でした。
主郭の段築状の石垣
という説明板が出ていました。
織田信長築城時の石垣が確認された、とありました。
織豊期のお城として、石垣を配するのが特徴的ですが、その初期のものという事で、まだ造りが粗いようです。
▼これは 徳川義親氏之像 とありました。
「尾張徳川家十九代」と冠されていました。
徳川義親(1886-1976)は、松平春嶽を父に持ち、1908(明治41)年に尾張徳川家の養子になったといいますが、生まれ年からして明治の人物です。
植物学の研究をすると共に、熊狩りや虎狩りなどもやっていたそうで、「熊狩りの殿様」などと呼ばれていたようです。
▼小牧山城です。
軒先の立て札に入館案内がありますが、小牧市歴史館として活用されています。
この建物は、豊臣秀吉が聚楽第を建てた時の「飛雲閣」がモデルだそうです。
▼小牧山の樹木
としてこれだけ多数の木々が紹介されていました。
何が何科で、どんな風に利用されているかを知るだけでもずいぶん勉強になるものですね。