続々トラベルとかナントカ

日本全792市を訪問した駅や旅の記録です

奈良/大和郡山 水面映える郡山城

奈良県大和郡山市近鉄郡山駅からの歩き旅です。

(2006年11月当時)

 

近鉄郡山駅前の柳町商店街」というところです。ここにはゲートが立っていました。

 

JR郡山駅から、近鉄郡山駅へ向けて歩いてもここへ出くわしますが、大和郡山市唯一の商店街といいます。この商店街について検索してみて、寂れた商店街とか昭和レトロとかそんなワードがよく出てきていました。

確かに昭和の雰囲気はかなり残っていて、これは2006年当時の様子ですが、つい先日2020年に訪ねても同様の雰囲気が保たれていました。

 

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近鉄郡山とJR郡山の両駅を繋ぐメインの通りから少し外れた所だったと思いますが、より一層古風な一角があり、右手前は筆の店のようで、左側は医院などが並んでいました。

 

「柳一丁目」はそのまま住所表記もされているところですが、ここはかなり和風で古風な感じでした。

 

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大和郡山市役所です。

 

近鉄郡山駅側にかなり近く、JRと近鉄では同駅間は約1kmありますが、かなり西側(近鉄駅側)にあります。

 

「平和のシンボル金魚が泳ぐ城下町」と一文字ずつ横に貼られていました。(多分、今はもうないと思います)

 

この2006年当時ですら、古風で厳かな感じの建物だなと思っていましたが、1962(昭和37)年竣工の建物だそうです。

 

この建物で長年稼働してきたのですが、今年から遂に解体工事に入り、新庁舎建設が始まっているといいます。2023年竣工予定だそうで。

 

前にある(左端に写っている)橋は百寿橋(ひゃくじゅばし)という橋ですが、1936(昭和11)年竣工で、建築学会の「選奨土木遺産」というものに登録されています。ただ選定されたのは2017年で、この当時はまだそのようなものはありませんでした。

今はこの鉄筋コンクリート橋梁ですが、以前は1897(明治30)年に木造橋がつくられていましたが、地元住民の寄付を受けてこの鉄筋の橋ができたそうです。

 

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▼郡山中央公民館前にあった「こま型日時計です。

 

この時計の前に立って、指針の影の中央が示す時刻を読み取ってください、とありました。

その時刻に下の表にある数字(分)を増減したものが、本当の時刻、との事です。

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▼市役所や中央公民館の程近くに郡山城跡があり、このような城の塀が見える交差点もありました。

 

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大和国を代表する城郭といっても良い郡山城の堀周辺です。

 

水面に上面の景色が映えて、とても画になっていました。

 

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郡山城跡の敷地内へ。

 

郡山城風致地区と標柱がありました。

 

「風致」とは、「おもむき」「あじわい」などを意味し、この風致地区に指定されたエリアには、建物の建設や樹木の伐採が規制されるなどがあります。

 

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▼城塀がものすごくゆがんで、ずれてる部分がありました。

 

この歪みは地面に合わせて作られたのか?またずれてる部分は何気に怖かったです。

 

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▼下の部分の草木が丸見えの「空堀」もありました。

 

むしろこの郡山城跡内において、個人的にはこの空堀の方が印象的でしたし、郡山城空堀、の図式が何故かできてしまいました。

 

堀も美しいですが、石垣も素晴らしいお城でもあります。

 

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▼このような日本庭園的なエリアもありました。

 

さすがにお手入れも良くされていました。

 

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郡山城「追手門」です。

 

このお城は1580年、筒井順慶(1549-84)の築城で、後に豊臣秀吉実弟である豊臣秀長(1540-91)の居城とされ、秀吉の弟の城という事で大規模につくられたといいます。

 

秀長は天下を取った秀吉に異を唱える事の出来る、政権下に欠かせない人物として主に調整役に回っていたといいますが、その天下統一から程なくこの郡山城内で病死した、という事が豊臣政権の短命化をより加速させたのかもしれないな、と勝手に思っています。

 

門の話に戻ると、郡山城が明治初期に破却されて以来はしばらく廃れていて、それから100年余り経った頃に色々と復元される事となり、この追手門においても1983(昭和58)年に複元されています。

 

今では郡山城の入口としてシンボル的な存在となっています。

 

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郡山城の最も象徴的な建物のひとつである「追手東隅櫓」です。

 

元々は「法印斜曲輪巽角櫓」(ほういんななめのくるわすみやぐら)というむつかしい名前で呼ばれていたようですが、柳沢氏が甲府から入場した際に現在の呼び名になったようです。

 

追手門を横矢で攻撃する場所であったようで、物見櫓としても使われていたといいます。

 

追手門に続いて1984(昭和59)年にこの櫓が復元され、郡山城に櫓が立った事となりました。

 

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▼もうひとつの象徴的存在である「追手向櫓」です。

 

これは追手門と繋がって、向かい側に立っている櫓で、これも復元されたものですが、追手門東隅櫓よ少し遅れて1987(昭和62)年に復元されています。

これができて郡山城内の建物群の「役者は揃った」状態になったかな、という感じがしました。

 

東隅櫓との違いは、東隅櫓は建物の裾の部分がやや末広がりになっていて、石垣の面から若干はみ出していますが、この向櫓は裾の部分がまっすぐで石垣の面とフィットしているところです。

 

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城址散策道なる小さな標柱があった、城内の歩道周辺の様子です。

 

この時訪ねたのが11月下旬という事もあり、銀杏がとても綺麗でした!

 

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▼最後になりますが、お堀に色々いました。

 

ヒル(鴨?)やら鯉やら。お城のお堀を見る楽しみのひとつは、こういう動物たちでもありますね。

 

大和郡山では、お城こそ見れましたが、市のウリである金魚関係のものがあまり見られなかったのが少々残念でした。

 

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