大阪府和泉市、大阪/和泉① 悲しき閉館!弥生の里温泉に続く和泉市第2弾です。
(2019年9月当時)
▼今は亡き弥生の里温泉のホテルで宿泊して一夜明け、和泉市でどこを巡ろうかと考えながらJR信太山駅まで戻ってきて、そこから裏手へ回ってすぐの所が写真の地点となります。
で、目指すはこの標識の上側にある「(史跡)池上曽根遺跡」です。
普通に歩いていける所にあるので、早速Let's Go!します。
▼上の標識に沿って、これを向こうに進んでいきます。
▼和泉市のマンホールです。
初見でカラー版に出会えることがあまりなくて、ラッキーでした。
ただしこれは、通常の和泉市のマンホールではありませんでした。
JR信太山駅から大阪府立弥生文化博物館への道のり限定デザインだそうです。その道中にだけしかないもの、という事です。
銅鐸などに描かれているデザインをモチーフにしたもの、とありました。弥生文化を感じさせるイメージですね。
▼マンホールの手前には地面に直接ペイントされた標識がありました。
池上曽根史跡公園まで430m
とありました。
これが信太山駅からすぐ(徒歩2分くらい?)の地点だったので、駅からの距離は上記+αという感じでみて頂いてよいかと思います。いずれにせよ1kmない距離で気軽に歩いて行ける距離である事は確かです。
▼道中にあった掲示板です。
以前、JR信太山駅(↓)の記事をリリースした際に、片側しか出口がなかった時のものをお送りしていましたが、その後この2019年にバリアフリー化工事を始めており、その時の案内がここにありました。
今思えば、現在の姿に至るまでの貴重な1カットというところです。
▼こんな道も通りながら、遺跡へ向かって行きます。
▼目的の池上曽根史跡公園に到着しました。
和泉市にこんな大々的な遺跡公園があるとは知りませんでした。
和泉府中周辺で観光できる所を一度探していましたが、それよりもこの信太山駅周辺の方が全然ありました。
▼池上曽根史跡公園は、ただの遺跡群ではなくて、イベントもなされている所で、バザーやフリマなども開催されていて、人で賑わう所でもありました。
▼遺跡周辺のルート案内としてマップがありました。
信太山駅からは近い事が窺えます。真ん前という感じではありませんが。
▼池上曽根史跡公園の説明板です。
池上曽根というのは地名の複合なのですね。
和泉市池上町から泉佐野市曽根町にかけて広がっているということで、両方をそのままつけた、という。大阪だと岸里玉出がそんな感じですかね。
遺跡は1903(明治36)年ごろに当時の旧制中学生により発見されたのが最初で、その後調査が進まない期間を経て、1995(平成7)年から史跡整備がなされ、日本屈指の弥生時代遺跡であることが分かりました。
1976(昭和51)年に国史跡に指定されています。
…というようなことが記されていました。
▼敷地をずっと入っていきました。
こんなのどかな所の向こうに、当時を思わせる家屋群が見えます。
▼遺跡の当時の姿を図説したものがありました。
紀元前50年ごろってどう特定したのか?もですが、金属器の工房があったのが興味深いですね。
▼高床式の建物です。公募で「いずみの高殿」と命名されています。
面積135㎡の大規模な建屋で、神殿であったといいます。
出土した際に柱の基礎部分が腐っていなかったと言われ、その柱の年代を調査したところ、紀元前52年ごろとされ、上の写真の図示にあった「紀元前50年ごろ」の根拠はこれだった訳ですね。
横から見ると、実に壮大な建物であることを実感します。
▼竪穴住居です。
弥生時代の遺跡にはこれはデフォで置いてあるでしょという感じの建物です。
小規模の遺跡で、高床倉庫がなくてもこの竪穴住居はあるよね、というところですが、実際目の前にしてみるとこれはこれでなかなかの壮大感があり、昔の人がこんな所で住んでいたわけです。
また、これがたかだか2,000年くらい前の話というのが、人類の歴史から考えると、ほんのわずかな時間であり、ついこないだまでこうだったのか!と思わされてしまいます。
▼表に表示がありましたが、バザーが催されており、遺跡スペースを囲むようにこのようなイベントコーナーがありました。
▼遺跡スペースとバザーのようなイベントスペースのみならず、屋内の憩いスペースもありました。これは大変ありがたいですね。
「池上曽根弥生情報館」という事で、10時から開館していました。
この時まだ9月初めの暑い時期だったので、避暑に大変助かりました。
という事で、単なる遺跡を見るだけのスペースだけでなく、多様に楽しむことのできるスペースとして和泉市の観光で個人的にイチ押ししたい場所でした。
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