鳥取県鳥取市の旅、第一弾として旧・河原町の様子をお送りします。
(2004年7月当時)
今から20年も前、当時の画素数の少ない形態で撮った写真も含む為、画像の悪さは御容赦願います。
鳥取市内は色々と行っていますが、この2004(平成16)年に平成の大合併があり、その直全に訪ねた所がいくつかあり、旧郡部(この年鳥取市になった自治体)のエリアからお送りしたいと思います。
その最初は「河原町」。「かわらまち」ではなく「かわはらちょう」です。
といってもほぼ河原城しか見ていませんが…
▼旧・河原町内の街なかでほとんど写真を撮っておらず、これはその中の数少ない1枚ですが、旧河原町役場付近で、河原では最も都会的なエリアでした。
当時は11月に鳥取市へ編入されるのを控えた7月で、歩道橋の表示もまだ「八頭郡河原町」でした。
この場所は当時「TOSC前」という事で、TOSCとは「鳥取(TOttori)生活(Seikatsu)センター(Center)」の略で、鳥取県内の主要箇所でスーパーチェーン店として展開されていました。この時は全然普通に営業していましたが、昨年2023年9月末をもって全店が閉店しました。この写真の近くの「河原店」も直前の2023年7月をもって閉店されたといいます。
▼という事で「河原城」へやってきました。
ここからはすべて当時のガラケーで撮ったもので、また河原城の敷地のカットとなります。
▼顔抜き看板がありました。
八上姫と大黒さま、そして白うさぎのものでした。
河原は、八上姫のいた所とされ「因幡の白兎」の伝説の伝わる地でもあり、この看板があったものと思います。20年経った今もあるのかどうか…。
▼河原城の門から塀沿いの風景です。
そんな観光客で賑わってはいませんでしたが、逆に落ち着いて観る事ができたというものです。
▼駐車場から見るとこんな感じでした。
殆ど車は止まっておらず、また元々ここへ寄るつもりだったのではなく、バイクで走っていたらお城の建物が見えたので「!」となって観に来たという訳です。
▼アップで見るとこんな感じでした。
河原城という名前は、1994(平成6)年に「ふるさと創生事業」として、この模擬天守が造られて以降の名称です。
元は丸山城といいますが、鳥取市内に同名の城が他に2つもあり、それらとの区別もあり、また当時河原町にあったのもあり、このように呼称されたようです。
正確な建造年代は不明ですが、豊臣秀吉が鳥取城の兵糧攻めをする際に陣屋として置かれたといい、その後鳥取城の落城後は廃城になったといいます。
城跡があった事が判明したのが1991(平成3)年の事だったというので、それまでは知られざる存在だったようですね。
▼そして天守と同じ地平でのカットです。
20年前のガラケーの240×320pixelのカットにすぎないので、こんな写真しか手元には残っていませんが、それでもここを訪ねてこのカットを残せただけでも良かったと思います。というか、自分の写真の中で「お蔵入り」していたものを引っ張り出してきました。
また、この時周りに人がいなくて気づきませんでしたが、中へ入るには有料だそうで300円とありました。
↓河原城のサイトがありました。
▼城跡は小高い丘の上にあり、河原の街並みを一望できます。
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