続々トラベルとかナントカ

日本全792市を訪問した駅や旅の記録です

生活と思い出と世の中と (1991年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。38回目は1991(平成3)年の第1回です。

 

湾岸戦争の勃発、ソビエト連邦の崩壊など、世界を揺るがす出来事がつき次と起こった年で、日本では信楽高原鉄道列車事故が発生、また横綱千代の富士の引退など、歴史の転換点的な出来事の多かった年であった印象があります。

●ニュース

まずは年明けから、湾岸戦争の勃発に驚きました。戦争・紛争の類は常に世界各地でいくつか起こっているといいますが、リアルで知ってたのはイラン・イラク戦争くらいで、新たな勃発に驚いたものでした。「多国籍軍」なんて言葉はこの当時覚えました。この年末に出た長渕剛さんのアルバム「JAPAN」でも、このアルバムタイトル曲では、この事件を題材に歌われるなど、各方面多大な影響のあった出来事でした。

年明けといえば、東京の電話番号が10ケタになったのもこの年の1/1からでした。03の後に3ケタだったのが、その3ケタの頭に「3」をつけて4ケタになり、計10ケタになるってすごくメディアでやってました。当時田舎暮らしの自分には無縁な話で、こちらは市外局番自体が5ケタのところも近くにあったので(笑) 
東京といえば、都庁が移転したのもこの年でした。丸の内から西新宿に移転したという事で、この年放送されたやはり長渕剛さんの主演ドラマ「しゃぼん玉」は西新宿に住む主人公たちと地上げ屋との戦いのドラマでもありました。

タレント・若人あきらさんが釣りに出たまま疾走し、数日後記憶喪失の状態で発見されたニュースはワイドショーで暫く話題になっていました。朝起きてテレビをつけると連日ワイドショーでやってた感じでした。

そして、同じ日に起こったのが信楽高原鉄道列車衝突事故」横綱千代の富士の現役引退表明」でした。

信楽高原鉄道列車衝突事故は、死者42人と実に痛ましい事故になりました。後年、個人的にこの沿線駅を訪ねましたが、実にのどかな路線で、途中駅では降りる人がいるかいないかぐらいのレベルで、終着の信楽駅だけはさすがに賑わいがありましたが、平日にこんな大規模事故になるとは…と思わされました。当時「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」 という世界的な陶芸祭の会期中で、臨時列車も走らせ大賑わいだったようで鉄道会社の限界を超えた無理な対応の中で、当時の乗車率は280%という異常すぎる状態での正面衝突と悪条件が重なりすぎました。陶芸祭もこの事故により中止となり、悲惨でしかなかった事故でした。

また横綱千代の富士の引退は、大相撲の歴史のひとつの転換点となりました。初日に新進気鋭の貴花田(後の貴乃花)に敗れ、かつて自身が父の先代貴ノ花を破って引退のキッカケとなったように、その息子に引導を渡された格好でした。しかしここでは引退発表はなく取り続け、2日目の板井戦は勝利して首の皮一枚繋がり、まだまだこれから…と思った矢先の3日目貴闘力戦に敗れ、引退を表明しました。こんなに「ロス」が続いた引退は個人的に初めてでした。その後年寄陣幕を襲名して、その陣幕(=久五郎:第12代横綱)ゆかりの地として当時自分の住んでいた隣町に来訪して、引退後でまだ髷を結っていた陣幕親方(当時)が歩いていた写真を知り合いが撮って送ってくれた、そんな思い出もありました。

痛ましい事故としては雲仙普賢岳火砕流による災害もありました。中学時代の修学旅行で行った場所なので、より痛ましさを感じました。

橋本大二郎氏が高知県知事に当選しました。後に首相となる橋本龍太郎氏の弟ですが、NHKの記者の頃から知っていた存在でした。うちの亡き父が母に、「これ○○の弟や」みたいなことを当時言っていましたが、これが橋龍氏の事だったのかなと。

内閣は1989(平成元)年に発足した海部俊樹内閣が退陣し、宮沢喜一内閣が誕生しましたが、当時個人的に多忙すぎて、初めてといっていいほど首相交代時期を知らず、「いつの間にか宮沢首相に代わってた」という感じでした。

 

●学生生活

当時は大学2年から3年の時期で、大学生活でもそうでしたが、自分の人生においても山と谷を両方経験したといっても過言ではない、ものすごく起伏に溢れた年で、おそらく自分史上で最も全力で一生懸命生きた年だったと感じます。
正直他の年では、忙しく過ごしてもどこかで手を抜いて生きてるので、こんなにもがっつり全力で、多忙すぎる時期を駆け抜けた年はない、と今でも思っています。それぐらい自分の人生では色々な経験を経て「最良の年」だったと思います。でも、この年にやった事と同じことをもう一回やれ、といわれてもできないくらい、それぐらいキツかったのも確かです。

春は新入生歓迎祭ということで、2月頃から?準備期間で色々とやっていました。尊敬する先輩から請われて「やってくれ」という事で、周りは知らない人たちばかりでしたが、とりあえず引き受けました。新入生の歓迎は良かったのですが、自分のところともう一方のところがソリが合わな過ぎて最後はあまりよくない形で終わってしまったのが残念でした。

春からは大学のお祭りという事で、此方を引っ張っていってました。7月から自局にメンバーが入ってきて、ほぼ知り合いがいない者同士が20数人集まる中運営していくのは大変でもあり、その化学変化が楽しみでもありました。幸い前年からの残留メンバーも数名いてくれて助かりました。
それぞれ各所属団体から駆り出されてきてるので、自分の時間がなくなるわで、正直やる気がなくて当たり前で、みんながみんな馴染んだわけではなく、やる気のある人ない人それぞれでした。
それでも最後終わる時に、皆が泣きそうになるほどの金八先生の卒業式ではありませんが、ちょっとそんな感覚になっていたのは、皆が一生懸命やっていざという時に結束したから、だと思えました。
自分の力よりも、皆が本当にそこで頑張って、仲良しも作って、突き進んでいってくれたことが本当に嬉しかったし、みんなの力でこの結束が生まれた、とつくづく感謝でした。その時も感謝はしていましたが、時が経つほどに当時のみんなに感謝しきりで、今振り返ってみんなにありがとうを言いたいところです。ちょうど去年、当時のひとりに30年ぶりに再会して、昔の話、今の話…色々できました。長く生きてると、こういう事があるので、やっぱり生きてみるもんだなと思います。

とにもかくにも、生涯で後にも先にもない「胴上げ」をされたのがとても嬉しかったです。その後ひどい目にも遭わされましたがそれも含めて良い想い出です。それもこれも期間中全力で駆け抜けた事によるものと思っています。


他の事だと、前年秋からバイクのバッテリーがあがってしまい、暫く直しもせず自転車生活に戻っていましたが、春にバイクショップに修理に行って復活してからは授業の空き時間によく走り回っていました。ただでさえ田舎なのに、ちょっと内陸部に入ると山の中だったり、とてつもなく田舎に入ってしまい、「どこ走ってるのか」目印が何にもない中で迷いながら走る事もよくありました。

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▲1991年当時の出雲三成駅(島根県仁多郡奥出雲町(当時:仁多町))

夏は終日バイトをやっていましたが、特殊な教育実習が入ったりして満足に働けませんでした。教育実習といっても「青年の家」で職員の仕事をするもので、それはもう日々緊張しましたし、山の上の「別世界」で籠っていたので、異次元空間にいたような1週間でした。

 

すごく、個人的に思い出回顧みたくなってしまい、なんのこっちゃな内容になってしまいましたが、次はもう少し当時の世間的な内容に触れていきます。