続々トラベルとかナントカ

日本全792市を訪問した駅や旅の記録です

生活と思い出と世の中と(1994年①)

遡って振り返る、「生活と思い出と世の中と」。31回目は1994(平成6)年の第1回です。

自民党外の政権が続いた中で細川内閣の退陣、羽田内閣、村山内閣の発足、松本サリン事件の発生、色々と波乱含みだった印象のある年で、個人的には24歳になる年男の年でした。

 

●ニュース

前年に自民党政権体制、いわゆる55年体制が崩壊して、新しく誕生した細川護熙内閣でしたが、翌年にあたるこの年にわずか9ヶ月弱で退陣、続いた誕生した羽田孜内閣は更に早く2ヶ月わずか64日で退陣という、目まぐるしい動きがあり、そして村山富市内閣が誕生しました。眉毛が長い「トンちゃん」は人形まで出て、その飄々としたキャラクターと相まって話題になりました。

松本サリン事件はテロ事件として話題になりました。これが翌年、あの地下鉄サリン事件につながるとはこの時まだ思ってもみませんでした。

関西国際空港はこの年開港しました。それまで伊丹が大阪空港としての役割を担っていましたが、この90年代だけで関空ができ、またその後には神戸空港ができ、と急速に増えました。伊丹が「大阪空港」と呼ばれていたので、昔幼少時にこの空港に行くとなった時に、大阪府に足を踏み入れる、ものだと思っていたら実は兵庫県(県内)でがっくりした事があります。

野球の項で触れますが、10.8決戦がこの年で、当日先述の皆で集まっていた時にこの戦いが行われていました。同じく野球で巨人の槙原博已投手が平成唯一の「完全試合」を達成しました。オリックスイチロー選手がシーズン200安打を越えたのも大変話題となり、かなり破格な出来事が多かった年と思います。

 

●仕事

社会人2年目を迎え後輩が入ってきたという状況で、ちょうど勤務1年にして最初の店舗から異動命令により離れる事となりました。

最初の店舗は、最初は慣れな過ぎて酷かったですが、年明け以降はすっかり慣れて、頑張れると思いながら日々を過ごしてきた中での異動命令、上司である店長に「今君に抜けられたら痛い」と言ってもらえたのは嬉しかった思い出です。

4月~2つ目の勤務先へ異動してきました。勤務先がすごく遠くなり通勤時間が激増し、それまで遅番だと9:15くらいに出てたのを6:55くらいに出たり、帰りも19:30くらいに帰れたのが、21:00までに帰れる事がほぼなくなり、バス→電車→バス→徒歩みたいな感じでした。なのでだいぶプライベートタイムは減りました。また社内でいちばん売れる店舗だったのでレジに立ったり、休憩明け店舗に戻る時が、戦場へ向かう気分でした。多分これまで30年近い社会人キャリアでも、もっともハイテンションで仕事に取り組んでいた時期だと思います。

多分、そんなに長くはここにいないだろう、と思いつつ仕事していましたが、案の定3ヶ月半で異動となり、次は他の小店舗で「店長」として赴任となりました。それまで店長を上司に「アシスタント」の立場でしたが、社内イチ忙しい店舗で修業期間だったんだなというところでした。

7月~は店長として赴任しました。という感じで、1月、4月、7月とどれも違う勤務先で、最初の会社の4年間では最も慌ただしい年でした。

店長になって赴任し、そこは小店舗で忙しさ具合は前勤務地と異次元に少なかったのですが、何せ人手不足でした。パートさんがやめていき…という状況で、募集しても来なかったり、来ても「??」で続かなかったり…。それもあって後にも先にもない14日連続勤務をこの時やりました。シフト上「休日」とした日も何回か出てきたりして…。

3ヶ月くらい経ってようやく人的面が安定し、久々にプライベートタイムを感じられ、学生時代過ごした地へ半年以上ぶりに行きました。それまでほぼプライベート何してたか覚えてないくらいでしたが、ここから少しペースが掴めてきたかな、という感じで。この会社は2年目で店長とか当たり前でしたが、昔の同級生から見ると驚かれてました(笑) 普段2、3人で回してた店舗ですが。

 

●プライベート

覚えてない期間もあるぐらい仕事に全力投球していたといっても過言ではない時期でした。それもまだ若くて情熱があったので、仕事の忙しさとそれに向き合う能動的なパワーと、これまでのキャリアで最もあった年だと今振り返っても思います。

その分だけ、プライベートも最もアグレッシブだった気がします。毎日のようにCD店寄ったりは以前からしていましたが、恥ずかしながら朝帰りも初めてしたり、夜遅く2時や3時まで遊んでたり、若さゆえかあまりに酷かったので、実家に居づらくなり引っ越して自立する事を決め、初めて自分で不動産屋に行って、賃貸契約をしてきました。社会人2年目で敷金40万払うのは痛かったですが、単身移住を果たしました。当時は敷金礼金が家賃の10ヶ月分とか普通でしたから…。

とにかく手続きが色々面倒でした。それまでの引っ越しは実家から学生アパートの引っ越しで、この時は大家になる方に勧誘されてそのまま入ったので、ほぼ苦労なしで、大学卒業時の引っ越しも実家に戻るだけだったので楽なものでしたが、社会人になって初めて自分で決めて引っ越し、全部自分でやり切るのは大変でしたが、楽しくもありました。何せ初めての1Rでのひとり暮らし、学生時代はキッチンと風呂、電話が共同だったので、やっとホントの意味での一人暮らしができるようになった、気分でした。

引っ越ししました、というハガキを方々へ送りつけたり、当時あった「プリントごっこを買って年賀状を作ったり、以後数年はこれを使って年賀状を作るのが年末の楽しみのひとつでもありました。

学生時代過ごした街へ3月までは毎月のように行ってましたが、転勤後ほぼ行けずに半年後にようやく、しかもめったに休めない土日に休めて、行く事ができました。学生時代メンツが20数名集結して旅館で大宴会、とても楽しいひと時でした。

翌月、同様に訪ねた際には小規模でしたが何人かと会い、出身大学のイベントを色々見て回って、平穏なひと時を過ごしました。学生時代の日常に帰ったようにも思えて、これまた良いひと時でした。

また、この年辛かったのが「腰痛」でした。春から夏ごろまで、ぎっくり腰のような突然来たのではなく、いつの間にか常時痛くなっていました。立ち仕事に重い荷物運び、若さに任せて腰のケアも考えず動き回っていて、明らかにそれがダメだったのですが23歳にして腰痛に悩まされる辛い日々が続きました。じっと立っててもいたい、歩いてても座り場所を見つけたがる、座り続けても、寝続けても痛い…どうしようもない日々でした。しかし、いつの間にか痛みが引き2、3ヶ月で解消されました。特に何をしたわけでなく、辛さに悩んでるうちにいつの間にかなくなり、その後は一時的に痛いと思う事はあっても、日々常時痛くなることは30年近く経って一度もありません。特に腰のケアもしていません。ただモノを持つ時は絶対に腰を落としてから持つようにしているぐらいです。

そしてこの年は「暑い夏」でした。腰を痛めて調子悪いさなかで余計厳しく感じたかもしれませんが、夏の暑さがこの時代にしては突出していたように感じました。ここ近年はそのぐらいの暑さは普通になってきた気がしますが…

 

●旅行

1月に初の愛媛県に行きました。初四国は1989(平成元)年に大学受験で香川・高松へ行きましたが、四国で2番目に訪ねたのは愛媛・松山でした。ホントにちょっと寄っただけで帰ったので、大して行ってませんが、その県に足を踏み入れるというだけで、この時は良かったのでした。

これ以外は殆ど旅行はできていなくて、春から秋はどっぷり地元に浸かっていた事もあって、そこへ気持ちが向かなかった部分もあります。