(2021年9月当時)
▼会津若松市に初めて来たのは2009(平成21)年8月の事でしたが、今回記事はことし9月再訪分の写真でお送りします。
この町の最初の訪問はご縁がなく、泊まろうとしたホテルはまさかの満室で泊まる事ができず、観光もままならないままに急遽郡山の方へ引き返してホテルを取る事となり、ろくに街の風景を撮らずに発つ事となりました。
なので旅記事として成り立つ写真も載せられず、今秋に12年ぶりの訪問でようやくまともに訪ねる事ができました。
会津若松駅へ12年ぶりに訪ねましたが、大して変わってなかったこともあり、ここでは割愛して、この写真が最初です。
これは、会津若松のバスセンターの一角ですが、目的地へ歩いて行くには少し距離があり、バス一択でここへ来ました。
会津若松駅前すぐで徒歩1、2分のレベルにつき、容易にアプローチできるし、室内で待てるし、それにいろんな方面へのバスに乗るには駅前広場よりもここへ行っておく方が得策と感じました。
▼会津若松のバスターミナルからバスに乗って約10分で、この「鶴ヶ城西口」バス停に到着しました。
目的地はそう「会津若松城」です。
前回行けなかったリベンジとした、会津若松といってまず行きたかったのがここだった訳でようやく念願が叶う事に。
▼バス停付近のあったマップ「まちなか散策 西出丸周辺」というものでした。
藩校「日新館」にまつわるものや、ゆかりの人物の紹介がなされています。
ゆかりの人物として保科正之の名がありました。
保科正之(1611-73)は徳川秀忠の子であり、家光の異母兄弟にあたりますが、それまで外様大名が務めていた保科家初代の会津藩主の座につき、いきなり親藩大名が就任した事となります。ただし秀忠は正之をいわゆる「認知」することはなかったそうです。
また、彼の治世に会津藩で、日本初の老齢年金制度が導入されたといい、90歳を超える者に米1日5合を支給したといいます。そんな年齢で1日5合も食べないでしょうから家族が助かっただろうな、と考えてしまいます。
この時代に90歳を超える人などいたのだろうか?ですが、当時の会津に150人もいたそうです。それこそ人生50年といわれた頃に、この数字は驚きでした。
▼バス停から鶴ヶ城までの約10分の道中にあった「旧会津中学校跡」です。
現在の福島県立会津高校の前身にあたり、1890(明治23)年に会津中学として開校したとされており、先の藩校・日新館が基になっています。
▼幹線道をそれて、鶴ヶ城への入口へと進みます。
お堀が見えてきてて、お城らしさが窺えます。
▼「鶴ヶ城跡」の石碑がお出迎えで、堀と石垣がドーンとありました。
これら道路をクランク上に九十九折ながら入口へと至ります。
▼福島県屈指のお城で天守を有しますが、お堀の美しいお城でした。
▼入口真向かいにこのような「鶴ヶ城會館」がありました。
レストハウスだそうで、お酒や民芸店の販売や食事もあり、着物レンタルものやっているそうで、お城を見た後の立ち寄り先として良い所と思います。
▼鶴ヶ城會館の横にある門に「桜ヶ門馬場跡」というのがありました。
馬場という事で、馬の練習場だったそうです。
また「桜ヶ」とあるように、この辺りは桜の名所として春には見事に桜が咲き誇るそうで、これは明治末期にこの辺りで1,000本ほど植樹された事が始まりだそうです。
▼これも入口向かいですが「天守に一番近いパーキング」と銘打った駐車場がありました。
これって絶対、「天国にいちばん近い島」意識してるでしょ?って感じでしたが(古くてスミマセン…)
▼という事でここから入っていきます鶴ヶ城です。
初っ端から行き止まりみたいになってて、鉤型の入口になっていました。
▼その鉤型の入口に関連してですが、曲がり切らないうちの所に「桝形」として説明板がありました。
ここの石垣は今から約370年前の加藤時代に造られたもの、とありましたが、保科正之が赴任する前が加藤氏の藩主だった頃となります。
▼鶴ヶ城のMAPです。
お堀に囲まれて区画されてる感じが印象的でした。
グローバルに英語でもハングルでも場所の表示がありました。
▼やはりお堀の美しいお城だな、と思い、いろんなカットを撮っていました。
なんというか、お堀と石垣脇の緑とのクッキリ感が妙に惹きつけられました。際が揃ってるんですよねビシッと。
▼お堀が綺麗という事は、石垣も綺麗という事で、石垣も印象的なお城でした。
こんな迫力のある石垣もあちこちにありましたね。
▼大きな石垣の門を入っていくとこんな感じです。
ちょっとした茶店があって、ここで軽く飲食してくつろぐ事もできました。
単に城跡だけある所と、こんな風に周りに店が出ている所ではやはり観光地としての位置づけが違う事を感じます。
▼最初に撮った天守のカットです。
先の茶店からでも眺める事ができますし、順路に従って入っていく事もできます。
明治初期の1874(明治7)年に天守は解体されたといい、この天守は1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート造で再建されたものです。元々戊辰戦争で大きな被害を受けている事もあり、保存は困難だったかもしれません。
福島県のお城では屈指の規模を誇る素晴らしいお城になっているのは間違いないと思います。東北本線から大きく内陸部へ入るのでアブローチが困難ではありますが。
▼天守に入る事ができますが、この時はやめました。
というか、お城はやはり外から見て画になるし、そっちの方に重きを置いてるので、あまり中を見てどうこうというのに関心が薄い部分もあります。
ともあれこのコロナ禍で、入る際には検温をしてから、という事で、きっと後の時代から振り返ってみて「こんな事もしてたな」思える、そんなカットになると思います。
▼天守のカットを。
綺麗な三角形というか、上層へ行くにつれ等間隔で狭まっていく感じの構造でした。長崎県の島原城がこんな形だったという印象があります。
壁の部分は一貫して白で、割にシンプルで平板な印象でした。なんかのぺっとした感じで、建物そのものは大きくて存在感はありますが、その中からにじみ出てくるものは個人的にはあまり感じず、きれいすぎるお城という感じでした。近年改装したての姫路城も真っ白すぎてそんな印象を持ちました。
▼城郭の庭園スペースです。
綺麗な形で、色々手入れが行き届いているのがよく分かりました。
▼最後に、茶店へ戻りここで特濃抹茶のソフトクリームを頂きました。
こういうのひとつ食べるのでも、思い出として残る訳で、それを500円で買いました。プレミアムとか限定とかいう言葉に単純に弱いのもありますが…
とにかく2009年に果たせなかった訪問をこの秋やっと果たせて満足でした。
長く生きてていい事あるなという典型的なケースかなと感じました。
◆こちらのブログもどうぞ!