続々トラベルとかナントカ

日本全792市を訪問した駅や旅の記録です

千葉/木更津 しょ、しょ、證誠寺

千葉県木更津市JR木更津駅からの歩き旅です。

(2011年1月当時)

▼これもまた10年前の様子となります。

この2011年は関東の色んな市を集中的に回ったので、その時一回きりしか行ってないところも少なからずあります。

それで最初の写真は、木更津駅前の「与三郎通り」という歩道アーケードのついた商店街です。と思っていたら、与三郎通りはアーケードから外れた横道の方でした。

木更津の名を全国的に有名にした歌舞伎狂言「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」というものの主人公の名前からとられたそうです。

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▼という訳でこったが与三郎通りです。

さっきと全然違ういかにも路地裏、横道という感じで、右の明治屋というのは昭和30年代には旅館であったそうです。

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▼右側も与三郎なのでしょうか?

左側には浮世絵がありました。「上総木更津海上として不二三十六景にて歌川広重により描かれたというものです。個人的にいまだに安藤広重の方がしっくりくるのですが…。

不二三十六景は富士山を主題として描かれた36の風景がですが、葛飾北斎の富岳百景にヒントを得て広重が描いたといいます。東海道五十三次も彼の手によるものですが、本当に色々なものを描いたのですね。

千葉県木更津沖のこんな海上から富士山が見えたりするのか?と思いますが、遮るものがなければあるいは見えたのだろうか??と思わされました。

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▼与三郎って狂言の話なのに「墓?」と思いましたが、そのお墓は光明寺というお寺にあるという事です。

というのも、「与話情浮名横櫛」の狂言は実話をもとに作られたそうで、与三郎のモデルとなった人物の墓がここにあるという訳です。

長唄を習っていた与三郎は地元の親分の愛人に惚れて、駆け落ち同然で逃亡したものの、子分たちの手により与三郎は簀巻きにされ木更津の海に放り込まれたそうで、しかし奇跡的に助かったのか、その惚れた女性と再会するところから話は始まるといいます。

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▼その光明寺の藥医門です。

光明寺建武年間1335年の創建と伝えられ、それほど遠くない鎌倉の幕府が1333年に滅亡したその翌々年にあたります。

お寺のサイトがありました。

https://temple.nichiren.or.jp/1021096-komyoji/

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光明寺の鐘楼です。

肝心の鐘の部分が隠れてしまっていますが…。

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光明寺の本堂です。

白壁に釣鐘型のくり抜きのあるタイプのものでした。

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光明寺を出て再び街を歩き、程なくするとまた何か書かれた木板が…!

冒頭に見覚えのある歌詞…というか幼少時何度となく歌った曲の歌詞が…。

證誠寺(しょうじょうじ)の狸囃子」です。

記事タイトルにもした「しょ、しょ、しょじょじ」のあのフレーズがありました。

證誠寺への標識も狸の絵と共に出ていました。

幼稚園だかで何度も歌った覚えがありますが、なんでタヌキが和尚さんと張り合ってるんだろう?とかいつも思ってました(笑) タヌキが並んで腹を叩いて大きな音を出していたところ、親分の狸が腹を叩き割って死んでしまったなんて話もありました。

 

證誠寺の狸囃子」は、1925(大正14)年に発表されもうすぐ約100年になるというので驚きでした。1929(昭和4)年にリリースされた曲を歌った平井英子さんという歌手の方はナント今年まで御存命だったそうで、2月に103歳で亡くなられたとのニュースがありました。

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▼もうすぐ證誠寺、というところに歌詞とタヌキの写真の載った木更津土産物店がありました。

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證誠寺に入りました。

「しょじょじ、ホントにあったんだー」と思ったものでした。

親鸞聖人とあり、浄土真宗のお寺である事が分かります。

HPがありました↓

 

shojoji.net

 

開創350年ともありましたが、17世紀中ごろにできたそうです。

当時この辺りは鬱蒼とした樹木の生える海岸で、一方で木更津の街は江戸幕府の庇護の下で房総最大の港町として栄えたそうです。

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證誠寺の狸塚の説明板と、この辺りに建つ色々なものについての説明板がありました。

狸が腹鼓を打つのを見て楽しくった和尚さんも一緒になって踊ったものの、突然狸たちが姿を消し、おかしいなと思ったら腹を叩き割って死んでいたタヌキがいて、和尚さんは懇ろに葬ってやったのが狸塚であると伝わります。叩き割って死んだタヌキは親分の説があったり、一介の?普通の狸説もあり色々のようです。

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▼奉納されたのは狸の扁額でした。

鈴木寅吉氏という方の手によるもののようです。

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▼先述の狸塚です。

1929(昭和4)年につくられたようです。

狸の置物と、碑の上の部分は単に「狸」とだけ書かれているのは…(笑)

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證誠寺の狸囃子の童謡碑です。

1956(昭和31)年とありますが、作詞者の野口雨情氏が一緒に写ったカットも遺っていました。

下の楽譜のメロディーの傍に「晋」とあるのは、作曲した中山晋平氏の事です。

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證誠寺を出て、再び街へ。

木更津駅へと戻ります。

左手前は、蕎麦屋さんですね。昭和を感じさせる建物が続いていました。

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▼薬丸病院とありました。薬丸の文字に惹かれて…。ヤックンとは無関係のようです。

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▼最後は木更津駅に戻って来てのカットです。

「龍宮城」とありましたが、龍宮城スパ/ホテル三日月という施設で、そこへの送迎バスが1時間に1本程度出ていました。木更津駅から約20分で着くそうで、時間があれば行きたかったですが、当時千葉県の色んな市をめぐっていたので…。

www.mikazuki.co.jp

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