につづく、飯塚市第二弾の記事です。
▼前回から八幡宮を出て、商店街へと入っていきます。
「ほんまち」と描かれているこの商店街に、「飯塚 祇園山笠」が映っていました。
▼その本町商店街へ入ったところです。
幟が両サイドから斜めに交差するように出ていて、飾り物も華やかな様子でした。
通りには「長崎街道 飯塚宿」とありましたが、ここ飯塚が宿場町であった事も、この時通っていて初めて知りました。
長崎街道は、江戸時代の脇街道のひとつで、九州では唯一の脇街道で、小倉から長崎に至る約220kmの街道、という事ですが、なにせ当時は「鎖国」の体制下で唯一海外と交易のあった長崎と繋がれている道路という事で、ここ飯塚もその重要な街道の道程のひとつだった訳ですね。
▼という事で一旦アーケードを出て、こんな所に「史蹟 飯塚宿構へ口跡」とありました。
「構へ口」というのは、宿場町の出入口の事をいうそうです。
▼柴田純歯科というのがありました
柴田純といえば、「太陽にほえろ!」で故・松田優作氏が演じていた「ジーパン刑事」の役名です。だからあえて柴田「純」歯科にしたのかな??と勝手に思ったりしていました。
▼福岡銀行の支店ですが、コンクリートの門周りが素晴らしい建物でした。
本店がまた、とてつもなく荘厳な建物なのですが、この本店は黒川紀章氏の設計によるものだそうです。
▼飯塚郵便局が交差点のモロに角にあるというのが分かると思います。
〒のマークも直角に合わさっている格好です。
▼飯塚おさんぽマップ
なるものがありました。
貼り絵で手作り感満載の楽しそうなマップでした。
▼二次元ではない、飛び出した三次元ポスターとでもいうべきものか、黒人バンドが壁を抜けて…これはなかなかインパクトがありました。
▼飯塚宿のイメージをすごく売り込んでいるような商店街と感じました。
筑前六宿とは…小倉常盤橋を起点として、黒崎、木屋瀬(こやのせ)、ここ飯塚、内野、山家(やまえ)、原田(はるだ)の6ヶ所を指します。
▼飯塚宿の画がありました。
やはり昔の街道は、街なかは幅が広いですね…。通りの中で色々とっ散らかってる感じを受けました。
▼大正ロマンの街
としての紹介がありました。
ただこれは飯塚に限った話ではないようで、飯塚の商店街の中に大正ロマンコーナーをつくったという感じでした。
▼商店街の一角で、ひなまつりのお雛さんの画が沢山飾られていました。
飯塚には「雛(ひいな)の祭り」というものがあり、市内の広域において貴重なひな人形が飾られているといいます。
▼これはまた商店街の別の一角ですが、炭鉱王・伊藤伝右衛門に嫁ぎ、懊悩を詠った美貌の歌人・柳原白蓮(びゃくれん)に「赤毛のアン」の翻訳者として知られる北岡花子との関係性が感じられました。北岡花子は「花子とアン」のあの"花子"です。
▼飯塚の象徴的なものとして「嘉穂劇場」がありました。
国の有形登録文化財にして、近代文化遺産でもある素晴らしい施設で、1931(昭和6)年に建てられたもので、その10年前の1921(大正9)年に大阪・中座を模して「株式会社中座」として建てられたのがその最初ですが、焼失・倒壊などを経て、建て替えになったそうです。
今年5月17日に運営団体が「解散」となり、劇場は当面閉館となり、飯塚市に譲渡された状態になっています。
この写真の当時はまだ普通に運営されていた状況でした。
http://kahogekijyo.com/blog/1908/
▼滴水館
という建物がありました。
「柔道教授 滴水館」との看板でした。
滴る水滴も、いくつもになれば巨岩さえも貫き通す、そんな意味合いのネーミングだそうですが、1948(昭和23)年に開設された柔道場です。
しかし、元の滴水館は皮肉にも多量の水、飯塚大洪水で水に浸かり再開絶望を余儀なくされ、再建となったといいます。
▼飯塚に本格的なキャバレー
という昭和感に満ち溢れた看板がボロボロの建物の横っちょにひっそりと立て掛けられてありました。
▼海坊主、って名前もインパクトがありますが、看板はそれ以上にインパクトがありました。
▼飯塚市の代表的な橋、といっても過言ではない「芳雄橋」です。
素晴らしい橋梁ですが、歩道橋は我が国3番目の鉄筋コンクリート製であったといいます。
ここもまた先の滴水館同様、2003(平成15)年の飯塚大洪水により、付け替えが決まり、これはその後の姿という事になります。
そんな芳雄橋から新飯塚の駅へ戻って、飯塚市の歩き旅終了です。
まだ訪ねていない「飯塚駅」の方へも行ってみたいものです。