(2010年9月当時)
▼唐津小学校跡
という石碑が残っていました。
唐津市立唐津小学校 という王道の名前でありながら、1958(昭和33)年3月というはるか昔に閉校となった小学校の跡地です。
その歴史は古く江戸中期の藩校「盈科堂」として設置されたのがその始まりとされ、学校としては1875(明治8)年に松原小学校として設立されたのがその始まりとされています。
1881(明治14)年に「公立上等唐津小学校」として、初めて唐津の名が校名につきました。唐津市立唐津小学校となったのは1947(昭和22)年の事ですが、そのわずか11年後に閉校となりました。児童数のナント「増加」がその原因だそうです。大抵は減少の為閉校になると思いますが、ここの場合は児童数増加により学校を分離開校し、この地は新学校にその役目を譲り渡す形で閉校になったといいます。
▼唐津市役所入口 交差点前です。
唐津駅から200mほど北の地点ですが、この向こうが駅になります。
唐津城のある位置からは少し距離がありますが、城郭を思わせる石垣やこのような関所門風の?建物が雰囲気を出していました。
▼市役所周りにある「肥後堀」です。
市役所南側の石垣に沿って存在したものを一部復元した、とありました。
▼お堀に舞い降りていた鳥を発見しました。
この鳥たちはいつも思いますが実に敏感で、それほど距離を詰めないうちから、少しずつ離れて行って、なかなか近くでその姿を見させてくれず、これらの写真もかなりズームして撮っています。
無理に距離をつめようもんなら、たちまち飛び立ってしまい、下側の写真のように羽ばたいていってしまいます、慌てて撮ったのでめちゃくちゃブレブレです(笑)
▼唐津市民会館がありました。
市民会館って意外とその表示が分かりやすいものって少ないような気がします。
こんな風に建物の前面にハッキリと明記されているケースはあんまり出くわしたことがなく、ここを見た時は妙に新鮮な気持ちになりました。
▼曳山展示場
とありましたが、唐津は「唐津くんち」が全国的に有名で、毎年11月2日から4日までの3日間開催され、その期間の人出はのべ約50万人ともいわれる壮大なお祭りです。
このお祭りでは、市内14町から巨大な「曳山」が城下町を練り歩く訳ですが、その曳山を展示しているのがこの場所となります。
▼唐津神社です。
ここが唐津くんちの会場となります。
創建は天平勝宝7年という事で、西暦755年というかなり古くからの歴史をもつ神社です。大きな鳥居が地元きっての神社である事を感じさせます。
片側がチビ狛犬を踏んづけている?タイプのものでした。そしてそのまた向こうにも狛犬がいました。
▼唐津神社の拝殿です。
青銅色?の立派な屋根で末広がりになっていました。
▼旧唐津藩藩校中門
とありました。市指定重要文化財だそうです。
1801年に水野藩の藩校「経誼館」の中門として建築され、その後小笠原藩に引き継がれやはり藩校「志道館」の中門として使用されたといいます。
ちなみに水野藩とは、三河国の藩でしたが一代限りで短期のうちに廃藩となった藩です。
旧唐津藩の建造物は意外にもほとんど残っていないそうで、志道館ゆかりの地に近いこの場所へ移築され、今は大乗寺山門として存在しているという事です。
▼唐津市立 大志小学校
という小学校の校門周辺ですが、唐津城の近くらしく、住所が唐津市西城内というだけあってか、城郭を模した塀になっていました。
▼埋門・埋門小路
「うずめもん・うずめもんこうじ」と読みます。
唐津城三の丸の北側には、海に沿って石垣が築かれていたという事で、埋門はこの石垣の中ほどにあった、海岸へ出るための出入口であったといいます。
かつてこの門を通って、多くの唐津藩士が外側の町や唐津神社へ行ったであろう、とされていました。
▼こちらは「二ノ門外堀・北ノ門」です。
唐津城の二ノ丸と三ノ丸を区画する重要なお堀であったといいます。
そして北東側には、海に向かって北ノ門があったとも記されていました。
▼時の太鼓
とありました。
唐津城の城址再建計画の一環としてこの太鼓櫓が復元されたとの事で、からくり時計であり、AM7時からPM7時まで、毎時00分に太鼓と共に中から武士人形と大太鼓が出てくる仕掛けになっているといいます。(残念ながら見れませんでしたが…)
▼唐津城が水城である事がよく分かるカットですが、砂浜から横目で見上げれば、こんな立派な天守が見える城ってあんまりないような気がして、これは行かねば!という気になりました。
さて、次の記事ではいよいよ唐津城へと進みます。