(2021年1月当時)
▼歩き旅といっても、水城駅からすぐのこの「水城跡」を見に行っただけの記事です。
道の標識に「太宰府市」とあるように、ここは大野城市と太宰府市の境目で、この水城跡は更に春日市にも跨るという実に3つの市に属する所であります。
なので大野城市の旅、と純粋には言いにくいのですが、大野城市の観光をするのがなかなかに困難で、以前に大野城駅前を訪ねた際も、これといったものがなくとても記事にできるものではなかったため「大野城市も含む名所の旅」という事でこの記事を成立させようと思います(笑)
という訳で、この左側の小高い丘を上がっていくのでした。
▼水城跡の大きな説明板がありました。
すみません、写り悪くて文字が見えないですね。
664年築城とされる古代の城で、翌年に大野城が築かれますが、いずれも大宰府防衛のためだそうです。
というマップがありました。こういうのを事前に見れていれば…という気がしなくもありませんでしたが、「大野城 観光」で検索してもなかなかこれというものがヒットせず、手軽に駅前のこの水城跡にしたという訳です。
観光資源が決して乏しい訳ではなく、むしろ古代の遺跡などかなり見どころのある所と窺えました。行って見ないと分からない部分があるんだな、と感じさせられました。
▼水城跡の看板のある場所へ。
日本遺産としての登録の旨記されていました。
また「続・日本の百名城」にも選定されているといいます。
▼敷粗朶(しきそだ)出土の瞬間
として地中に埋もれんばかりの形で説明板がありました。
粗朶(そだ)というのは、木の枝を集めて束状にした素材であり、「敷粗朶」はその粗朶を敷くという事で、上の盛り土を流れないように、これを敷くという当時のハイテク技術となる工法であったそうです。
ここでの説明は、約1,350年前のそれらの木の枝が出土した際に、それまで全くの真空状態で保存されていたため、今のものと同じように生き生きしていたという事で緑色であったものが、1,350年ぶりに空気に触れるや茶色黒に変色してしまった、という事です。
▼土塁の築造方法
なんていう説明板もありました。
勉強になる観光地でもあるのですね。
先の敷粗朶を基に土塁を築き上げる様子が描かれ、これが現代にものこる高い技術を持った工法であることも記されていました。
▼水城跡の端(水城駅側)は自動車教習所と接していますが境界も塀もなく、そのまんま教習所の敷地内に入る事ができてしまいます。
▼という訳で、水城跡の敷地から自動車教習所のコースが丸見えです。
▼教習所沿いの丘の道を奥に進んで角を曲がれば、すっかり緑の中という感じで、ここが水城駅前という感じは全くありませんでした。
▼水城の丘の部分です。
この存在がアクセントとなって、このエリアが観光地然とした雰囲気になっていると思います。
観光地といっても、人が絶えず賑わうというよりは、たまに人が立ち寄るかどうかぐらいな感じの場所でしたが…。
▼最後の写真、水城跡の道路隔てて向かいは線路な訳ですが、なかなか良い写真が撮れました。九州なだけに色んな素晴らしい電車が通っているのもありますね。