(2009年7月当時)
▼川内駅前の「薩摩川内」と表記されている所です。
かつては「川内市」でしたが、「仙台市」と同じ読みが紛らわしいのか(実際は多数自治体との新市誕生に関する複雑な事情があるようですが…)、2004年の平成の大合併にて旧国名「薩摩」を冠した「薩摩川内」市となりました。この当時はその5年後の姿となります。
左側の像は万葉歌人の「大伴家持」です。家持は764年に「薩摩守」に任命され、薩摩国府のあるこの地に赴任したといいます。左遷の形でやって来たようですが、後に太宰府の役人など九州の地方官を務めた後、中央に戻り表舞台で活躍する事となります。
大伴家持って、習った限りでは歌人の側面が強くて、政治家の面はあまりイメージなかったのですが、蝦夷討伐の責任者になるなど要職も務めていたのですね。
▼駅から街を少し歩いて「川内橋」というのがありました。
橋といっても、ここに川が流れている訳ではなく、高知のはりまや橋のように陸地に取り付けられた橋になっています。
というのは、この橋は1914(大正3)年に国鉄川内線の開業に伴う事業として、現・川内駅の位置から100mほどの地点に架かっていたといいます。
当時はもっと大きな石橋だったといいますが、戦災後の復興事業により1945(昭和20)年頃には撤去され、それから50年以上経過した1996(平成8)年の造成工事中に、当時の橋の親柱4本が見つかったという事で、2004(平成16)年の九州新幹線開通時に復刻したもので、丸い橋の部分は後から取ってつけたもので、当時を偲ばせるのは親柱の方になります。
▼旧・川内市の下水道マンホールです。
川内川を遊ぶカッパと川内川花火大会の花火とが描かれています。
「せんだいがわ」ですが、漢字表記すると上から読んでも下から読んでも同じなのですね。
川内川には「ガラッパ」というカッパに似た南九州に伝わる妖怪が生息しているとかどうとかで、この辺りではいたるところでカッパがクローズアップされているようで、先ほどの川内橋の袖の水辺でもカッパの人形がいくつかありました。
▼日本一 川内大綱引きとありました。
そういえば川内の駅構内にも大きな綱がありましたが、川内大綱引というものが民俗文化財となっており、400年以上もの歴史を持っており、時の島津公が兵士を鼓舞するために始まったとされています。
綱は長さ365m、重さ7tにもなり、日本一の言葉はダテじゃないですね。
▼「鳥追の杜」という説明版がありました。
薩摩川内市の指定文化財との事ですが、謡曲に「鳥追」というものがあり、これにちなんだ伝説が当地にあるという事です。
▼川内ホテルというのがありました。
川内駅から徒歩1分の至近にあるのが大きなウリです。
駅前すぐなのに、天然温泉大浴場ありという、これが嬉しいですね個人的には。川内には郊外にいろんな温泉があって、それらにも行ってみたいところですが…
▼街の写真がほとんど出てきていなかったようなので、駅前の幹線道の様子です。
▼先にあった「鳥追」がらみの像が駅前のここにもありました。
これは能の「鳥追舟」が川内を舞台につくられており、この事を表したものと思います。「鳥追舟」は今も観世流に引き継がれているといいます。
▼ここから先は3年後の2012年8月当時の様子ですが、衝撃的な文字が書いてあってビックリしました!写真が横になってしまいすみません。
「しんこだんご」とも言うようですが、この表記の通り「〇〇〇団子」は正表記です。元々は「しんこ」のようで、新しい粉という意味の「新粉」が訛ってこのようになったとも。
▼最後はコンビニで買ったものですが、さつま揚げが普通に売ってる事に鹿児島を感じました。
今度は郊外の温泉地を訪ね歩きたいものです。