(2012年8月当時)
▼まずは豊科駅前にあった「安曇野市豊科・堀金 観光案内」のマップです。
豊科はこの駅の名前にもある通りですが、安曇野市として2005年にスタートする際の中心的な町であり、堀金(ほりがね)は同じくその合併時の自治体で当時は堀金村でした。合併直前の豊科町の人口は約27,000人で、堀金は村であったものの約9,000人の人口がありました。
上にハクチョウの像?があるのは、市内の犀川(さいかわ)という川にハクチョウが飛来してくる事が関係していると思います。そこの湖は「白鳥湖」と呼ばれているようで。
▼駅からまっすぐ伸びている駅前通りです。
通りに提灯が並んでいたのは「安曇野花火」を間近に控えていたからと思われます。
安曇野花火は実に12,000発もの花火が上がるという事で屈指のレベルだと思いますが、今年度は残念ながら花火はないようです。
長野県というと諏訪湖花火大会が9月まで毎週のようにやっていたり、個人的に「花火大国」と思っている県ですが、この安曇野の地に1万発を越える花火が上がるとは!これはすごいなと改めて感じたのでした。
▼駅前通りを入って間もない辺りです。
右側の向こうに「旅館」の赤文字看板が見える所はまだ現役のようです。
この当時からまだ8年も経っていないのですが、googleマップと照合すると、現存していない(現役稼働していない?)ところが結構見受けられました。街の姿はあまり変わっていないところから、当時から建物だけそのまま残っていたのかもしれないですね。
▼駅前にあった渋すぎる建物です。
正直どこにあった何か思い出せません。
上の写真を撮ってから20秒後くらいに撮っているので、豊島駅近にあった事だけは確かです。
Googleのストリートビューで今見ても見つからず、駅前通りに面した所のものではないようですが、今もあるのか?気にかかるところです。
▼旧・豊科町のマンホールです。
カラー版がありましたが、白鳥湖の白鳥です。とても分かり易く町を表わしたものでした。
▼駅前通りを歩いて程なく長野銀行の手前の地点を左折した所にありましたが、なんとも和風な建物で、なまこ壁も見られました。
▼別の地点ですが、ここにもなまこ壁がありました。
結納品のお店という事でしたが、丸市紙店というお店で現在も稼働中のようです。
▼屋根の妻の部分に「大星」という字に見える意匠のある建物がありました。
ここに「水」と書いてあると、火除けの意味合いなどと聞きますが、これらの建屋にある文字は何を指しているのか?よく分かりませんでした。
▼法蔵寺というお寺へ来ました。
豊科駅から東へ徒歩約10分の所にあります。
法蔵寺は浄土宗の寺院で、1506年創建とありました。
江戸初期の1611年に成合新田宿という宿場町建設に伴い、この地に移転されたといいます。
この立派な山門はやはり江戸時代の寛政年間、1789年に建てられたそうです。
ケヤキの白木の彫刻が数多くあり、その為かこの山門が頭でっかちの構造になっているようです。
▼法蔵寺の表にあったお言葉です。
「才能の差は小さいが 努力の差は大きい」
…刺さります。
しかし理想なのは、苦に思えず一生懸命やってたらそれが努力した事になってた、という感覚ですね個人的には。苦しい事もあるけど、苦しいだけのするのはなんか違う、と最近思うようになりまして。努力するにも工夫があればいいなと。
▼山門に彫刻が数多くあることが、この写真からも窺い知れるかと思います。
ちなみにこの山門は「長野県宝」に指定されています。長野県宝として安曇野市で指定されているのが4つあり、そのうちのひとつという訳です。
▼山門を入った後の門です。
この門の両サイドには力強い仁王様が並んでいました。
▼法蔵寺の拝殿です。
屋根の傾斜が微妙なカーブ具合で、これが独特な感じで惹かれました。
▼法蔵寺の境内にあった「平和の鐘」です。
緑の芝生の上に緑の鐘が置かれているのもなんだかいい感じでした、保護色っぽくて。
終戦後の1949(昭和24)年に戦時供出されていたものを、檀信徒の熱意により鋳造されたもの、とありました。
ただその鋳造も物資不足の状況下であった事からひび割れてしまい、約40年の役目を終えてここにあるという事でした。
▼最後の写真ですが、屋根上の渋い看板のあったお茶の店でした。
とにかく「茶」の文字が何ヶ所にあるか!ぐらいな感じでした。
豊科といえばここ!というのは法蔵寺ぐらいでしたが、自然いっぱいの安曇野市、今度行く機会があるならまずは白鳥湖に行きたいですね、白鳥が沢山居る季節に。相当寒いでしょうが…