岐阜県中津川市、岐阜/中津川③ 馬籠Ⅱ 上り上る宿場町 につづく中津川市の旅記事も第4弾を数えるまでになりました。
(2019年7月当時)
▼前回記事までは馬籠宿に居ましたが、栗きんとんと抹茶を頂き、優雅に過ごしながらバスを待ち、来たバスでのこの中津川駅まで戻ってきました。
2009年以来10年ぶりに来た中津川駅は全然変わっていませんでした。
人口8万ほどの町の中心駅にしては規模の大きい感じでした。いつ行ってもそう感じます(笑)
▼中津川駅からの駅前大通り、中津川の旅はいつもかここから始まる!
かどうかは知りませんが…、駅前通りの風景もなかなかのもので、駅舎といいなかなかの中都市以上の雰囲気を感じます。これで人口10万ないの??という感じすらします。
とにかくここは向こうへとまっすぐ進んでいきます。
▼駅前通りの歩道を歩いていたところ、有名人の手形がズラリと並ぶところへ。
Charとか、うじきつよしとか…うじきつよし=Jickですよこどもバンドの。今やタレントとしての名がはるか通っていますが…。ロック歌手の重鎮のサインと手形が並ぶここは、2013(平成25)年から始まった「中津川THE SOLAR BUDOKAN」というクリーンな音楽フェスのものだそうです。
これの元として、中津川…といえば「中津川フォークジャンボリー」のあの中津川か!と今更思い出したんですが、これは1969(昭和44)年に始まった日本初の野外音楽フェスです。そういうフォーク、ロックのフェスのいわゆる聖地的な顔を持っているのもココ中津川の特色でもあるのですね。
ちなみに「うじきつよし」が本名だと今ここで調べていて初めて知りました(笑)
▼ここは「茶屋坂」というところで、中津川宿の特徴的な一ヶ所ですが、ここには江戸時代「高札所」が設けられていて、住民に様々な事をお知らせしていた所でした。(正確には若干離れた所にあったといいますが…)
「中津川宿」の看板を見て、中津川宿に来たんだな、というごく当たり前のことを実感しました。
前回の馬籠宿も中津川なら、ここも中津川な訳で、観光宝庫すぎるじゃないか中津川!と思ったものです。
中津川宿データとして、
江戸から数えて45番目の宿場町(馬籠宿の2つ隣)で、1843年時点で
人口:928人
家数:228軒
本陣数:1軒
脇本陣数:1軒
旅籠:29軒
ということです。馬籠宿が旅籠18軒であるのに対して、こちらはかなり多くなっています。
▼まだ続く中津川宿の道中、しか馬籠宿のような連続感というか、そういう感じはなくて場所ごとに全然違う顔になる事と、やはり平地である事が決定的に違っていました。
そして、ここではこんな寺院に出くわしました。
正善院という法華宗のお寺ですが、この赤い幟が並びまくっているのがインパクトがあって思わず立ち寄りました。
▼一旦駅前の道路に戻った形のカットです。
やっぱ小都市の中心駅の駅前という感じじゃなくて、もっと大きな都市の駅前という印象を持ってしまいます。
右側に写る「グリーンホテル」という所は、2006年に2度目を訪問した際に泊まったのですが、下側のホテル入口正面から撮っているカットはその当時のものです。13年経っても殆ど変わっていませんでした…。
当時4,000円ほどで泊まれるってことで探して泊まりましたが、屋上に大浴場があって、本来は入れなかったものを夜遅くに来て特別に開放してもらった覚えがあります。それで4,000円ほどなんて贅沢そのもの!と思いつつ帰ったのをよく覚えています。
それで「まだ健在なんだ!」と思って現状色々調べてみたら…
既に閉館しているようで、建物だけがきれいにそのまんま残っている格好でした。
次が西新町になっていて、この「新町」の隣が中心地の本町にあたる、そんな通りです。
▼街道を歩いているうちに「桂小五郎 隠れ家跡」という看板が立っていて、実際にその跡地近くの家屋を見ました。
桂小五郎とは幕末に欠かせない人物、長州藩の木戸孝允の事ですが、この建物は「料亭 やけ山」のあった場所と推定されるものです。
京都へ向かう藩主・毛利義親に会うために幕府の目を逃れてこの辺にあった料亭に待機していたといい、3日にわたる「中津川会談」で薩長同盟による討幕が進んでいったという事で、単なる隠れ家でなく、歴史的転換点を生み出した場でもある訳ですね。
▼ 「往来庭」という名の休憩スペースですが、見事な和風建築のものでした。トイレの表示も見えますが、奥の真ん中にある立派な建物がトイレです。
▼ろうきんの中津川支店も、この宿場町内にあっては、このような見事な和風建築の建屋でした。
▼四ツ目川という川に架かる橋のひとつですが、名前はそのもの「四ツ目橋川」というそうです。街道を象徴する橋なのか、灯籠が建っていたり立派めな橋でした。ここはよく川が氾濫し、四つ目の川筋である事からついた名前といわれます。
1932(昭和7)年には中津川駅構内まで浸水する大洪水が発生し、この川の堤防が13kmにわたり決壊していたといいます。
この川に橋がいくつも架かっていましたが、向こうは靄がかかって霞んでいました。
馬籠宿を巡っていた時は雨も結構きつかったのですが、ここへ来た時は雨は止んでいました。しかしそれまで降っていたのかこんな霞んだ風景になっていました。
▼四ツ目橋川を渡った西岸すぐのところです。
左手前の「白川茶」の幟の出ているお店は名前も白川家というようです。
白川茶は美濃のお茶として、この中津川市もその産地のひとつであり、有機栽培の下で生産されているといいます。
下側の写真に説明板が出ていましたが、所々いくらかこのようなものがあり、宿場町っぽさが出ていました。
▼橋の西岸から少し歩くとこの「中山道歴史資料館」があります。ここが中津川宿の脇本陣跡で、裏手には脇本陣を務めた森家の「上段の間」が復元されているといいます。
木曽路との接点や江戸や京都との接点として重要な役割を果たした地だという事で、今の鉄道路線上とはちょっと違った形で重要拠点であったのがこの中津川です。そんな所の古文書などが多く存在し、幕末の薩長同盟の密約などの文書も多く存在するといいます。幕末を切り開いた藩として薩長土肥などといいますが、それらと全くかけ離れた地方の幕末の姿とはどんなだったのか??思いを馳せる事ができる空間だと思います。
未だ開館前で寄る事ができませんでしたが、時間があれば行きたかったところです。
▼中津川宿のこちらは本陣跡です。
今は跡地の碑と説明板が残るだけですが、かつては建坪283坪の本陣があったといいます。
駐車場などになってしまってこの辺には面影は感じられないですが…
▼中津川村庄屋居宅とありました。
木造建築物としてのインパクト大で、個人的にすごく惹かれた建屋でした。
うだつがあがらない、なんて今どの程度遣われている言葉かよく分かりませんがその「うだつ(卯達)」が2階部分のサイドに仕込まれているのも特徴的です。
うだつといえば、拙ブログではこんな所で印象的でした。
この家屋は江戸時代に庄屋を務めていた肥田家が所持していたもので、江戸中期から旅籠を営んでいたといいます。その後明治30年代には曽我家が譲り受け、中津川初の医院を開業したとありました。現在曽我家住宅として有形文化財に指定されています。
▼最後はこの「本町広場」です。
ちょっとした休憩所スペースで公園になっています。
灯籠もあり、中津川にまつわる説明板もあり、中津川のちょっとした事をを知ることのできるスペースになっています。
ここまででもだいぶ写真をあげてきたかなと思いますが、中津川宿めぐりはこれ以後まだあって、1回ここで切りたいと思います。