(2011年2月当時)
▼まずはマンホールから。
ここは香取市ですが、旧・佐原市時代のマンホールでした。佐原は「さはら」ではなく「さわら」です。今はこの「さわら」が「かとり」に置き換わっているかもしれません。
市の花あやめが描き込まれていますが、これは現香取市でも同じ市の花だそうです。
他に描き込まれているのは「水郷 佐原の原風景」をコンセプトにしたもの、だそうです。
▼佐原駅南口からの駅前道路にあたる部分です。
そんな高い建物はなく、商店街という感じでした。
観光地は駅から少し歩く事となり、この辺りは普通に街の一部でした。
▼上の写真から少し進んだ所で、佐原駅から100m程の地点です。
かなり建物的に渋さが増してきていました。
向こうには大きな鳥居が見えてきていますが「諏訪神社」の鳥居で、ここから参道的な道路になっていきます。といってもきわめて普通の道がしばらく続くのですが…。
▼上の写真の交差点を左折し、東へ100m強歩いた地点です。佐原駅からだと200m強になるでしょうか。
「東通り」という事で、商店街独特の街灯と小さな幟が並んでいました。
「佐原の大祭」という関東三大祭のひとつと称される祭りがあり、そこでの秋祭りで沢山の山車が登場し、かなり華やかなものとなっていて、この幟に「大楠公」と記されているのは、大楠公=楠木正成の大人形の山車が現われる事と関係がありそうです。
楠木正成というと関西系で、この関東地方の佐原と何か関わりがあるのか?と思い調べてみましたがよく分かりませんでした。祭りの山車には様々な人物を模したものが現われますが、なぜ正成なのか?謎のままでした。しかもこうして商店街の幟にまで出てきているのに。
手前の円城寺本店というてものはかなり渋いですね。看板にあたる面の形がレトロでした。これ以外にもコンクリートの渋い建物が続いていました。
▼更に渋い街並みが続き、よりしっかりした?建屋群が続いていくここは観光客で賑わう辺りで、佐原駅から南東へ徒歩10分程度の地点です。
バス停の標識が3本立っていましたが「新橋本」とか「忠敬橋」とかありました。佐原といえば…というぐらいの象徴的存在の伊能忠敬の記念館が近くにあります。
▼佐原の町並、として案内板がありました。いよいよもって観光地という感じで、見ておりました。
思った以上に賑わっていて、当初はそんな観光地だと思ってここまで歩いてきた訳ではなかったので、嬉しい誤算でした。
江戸末期の書物によると、佐原は下利根附随一の繁昌の地なる記載があったそうです。川がある事で水運が栄え、昼夜止むことなく狭い川を船が先を争ったとの記載もありました。そんなサバイバルをこの川でやっていたのか…と、今はのどかな川を見つめて思いました。
「佐原三菱館」という1914年に建てられた旧三菱銀行の支店だそうです。銀行支店の役割を終えた後、当時の佐原市に寄贈され、1991年には千葉県の有形文化財の指定を受けたという建物です。現在は観光案内所として使用されているとか。
旧ソウル駅舎のようで、どこか東京駅っぽさもあり、目に入ると大抵惹かれるだろうな、と思わされる建物です。
▼この佐原地区の町並観光地のメインともいえる、小野川を挟んだ街の様子です。
当時のこの川幅がどの程度であったか分かりませんが、江戸時代はここでいろんな船が我先にといわんばかりにひしめき合っていたのか[E:sign01]と思うと時代の変遷を思わずにいられず、そんな想いでこの川を眺めておりました。
このエリアをもつ佐原の街は、色々と呼び名があるようで、
- 北総の小江戸
- 水郷の街
などと呼ばれ、この小野川沿いの町並は、関東地方で初めて「重要伝統的建造物群保存地区」に認定されています。他に関東では5ヶ所ほどしかなく(千葉県ではここだけ[E:sign01])、そんな貴重な街のひとつとなっています。
更には「平成百景」というものにも指定されており、どこもそこそこ名の知れた日本の景観のある所で、また「日本遺産」にもしてされ、そのようなもののひとつに選ばれているというのは、ここはやはり本物の観光地という事を感じます。
▼ここに写っている中村屋商店の建物の辺りが市街地と古い街並みを繋ぐ場所になりますが、この建物の辺りの写真がどこから撮ってもいい感じで、撮り所としておススメと感じます。
この商店は江戸末期1855年の築といわれ、横にある白壁の土蔵は1892年の築といわれており、いずれも築100年を超す歴史ある建物です。右から読む商店名も当時からのものでしょうか。
この時は雨降りだったので、歩道も濡れて光っていました。それで全体的にダークな雰囲気になっていました。
緩い曲線もあれば、きつい曲線もありで、メリハリのついた町並でした。
▼樋橋(とよはし)とよばれる、小野川との町並の中で、象徴的な橋です。
別名をジャージャー橋といい、橋の部分で水が川に向かって落ちていく仕様にされ、今の姿になったのは1992年の事で、後年「日本の音風景100選」に選ばれています。
元々は農業用水を水田へ送るため小野川に架けられた樋であったものが、人の渡る橋へとなっていったという事です。
AKB48の「言い訳Maybe」という曲にこの橋が出てきます。メンバーが次々と自転車で渡っていきますが、このシーンでは晴れていたので、この下の写真とは全然違うもののような印象を受けました。
橋のたもとにある「天候不順のため欠航 」とあるのは、この川の観光遊覧船の事であり、通常は10:00~16:00の間に行なわれていて、約30分を1,300円でめぐるというものです。
天気が良ければ川を船がめぐる姿が見られたかもしれませんが、結構な雨が降っていて叶いませんでした。
▼街並みを歩いていて横目に見える「伊能忠敬記念館」です。
佐原といえば伊能忠敬、というくらいの象徴的な存在で、この町並とともに観光名所として一体化しているのが、この記念館です。
残念ながら中には入りませんでしたが、伊能忠敬の生涯に迫り、また忠敬の業績といえる「伊能図」を余すところなくご紹介、とありました。また、地図の歴史にも迫るコーナーもあるとか、行っておけばよかったな、と少々後悔しました。
▼伊能忠敬記念館から小野川を挟んで向かいにある「伊能忠敬旧家」です。
この母屋は忠敬自身の設計といいます。
伊能忠敬は現在の千葉県にあたる地の生まれではありますが、九十九里の生まれであり、伊能家へ婿養子に入る形でこの佐原へやってきたといいます。
当初は家業の醸造に勤しんでいたといい、勝手に生粋の測量家かと思っていましたが、測量に興味を持つようになったのは48歳ごろと「人生50年」の時代において、かなりの「御年」ではなかったかと思います。
江戸へ出たのは50歳の時で、測量を始めたのは55歳で、随分と大器晩成というか、今でいうと80歳くらいで物事を始めるようなそんな感覚でしょうか。とにかく年齢の割にかなりのバイタリティーを持った人物だったのだな、と感服せざるを得ませんでした。
▼最後はここ、伊能忠敬旧宅の庭にあたる部分です。
「この一歩から」の碑文が心に沁みました…
日本全土の測量という大事業を成し遂げた人物でも、最初の一歩がなければ達成しえない事である訳で、この一言がすべてを物語っているな、と感じざるを得ませんでした。
伊能忠敬と佐原の街とでお届けしたこの香取市、千葉でも指折りの観光地と思われ、派手な所ではないと思いますが、歴史や町並を楽しみたい方にはうってつけの地だと思います。